黷スものはアメリカではないフランスだつた。
22[#「22」は縦中横] 詩人
クリストは一本の百合の花を「ソロモンの栄華の極みの時」よりも更に美しいと感じてゐる。(尤も彼の弟子たちの中にも彼ほど百合の花の美しさに恍惚としたものはなかつたであらう。)しかし弟子たちと話し合ふ時には会話上の礼節を破つても、野蛮なことを言ふのを憚《はばか》らなかつた。――「凡《およ》そ外より人に入るものの人を汚し能はざる事を知らざる乎《か》。そは心に入らず、腹に入りて厠《かはや》に遺《おと》す。すなはち食《くら》ふ所のもの潔《きよま》れり。」…
23[#「23」は縦中横] ラザロ
クリストはラザロの死を聞いた時、今までにない涙を流した。今までにない――或は今まで見せずにゐた涙を。ラザロの死から生き返つたのはかう云ふ彼の感傷主義の為である。母のマリアを顧なかつた彼はなぜラザロの姉妹たち、――マルタやマリアの前に涙を流したのであらう? この矛盾を理解するものはクリストの、――或はあらゆるクリストの天才的利已主義を理解するものである。
24[#「24」は縦中横] カナの饗宴
クリストは女人を愛したものの、女人と交はることを顧みなかつた。それはモハメツトの四人の女人たちと交ることを許したのと同じことである。彼等はいづれも一時代を、――或は社会を越えられなかつた。しかしそこには何ものよりも自由を愛する彼の心も動いてゐたことは確かである。後代の超人は犬たちの中に仮面をかぶることを必要とした。しかしクリストは仮面をかぶることも不自由のうちに数へてゐた。所謂《いはゆる》「炉辺《ろへん》の幸福」の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》は勿論彼には明らかだつたであらう。アメリカのクリスト、――ホヰツトマンはやはりこの自由を選んだ一人である。我々は彼の詩の中に度たびクリストを感ずるであらう。クリストは未だに大笑ひをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗宴《きやうえん》を見おろしてゐる。しかし勿論その代りにそこには彼の贖《あがな》はなければならぬ多少の寂しさはあつたことであらう。
25[#「25」は縦中横] 天に近い山の上の問答
クリストは高い山の上に彼の前に生まれたクリストたち――モオゼやエリヤと話をした。それは悪魔と戦つたのよりも更に意味の深い出来事であらう。彼はその何日か前に彼の弟子たちにイエルサレムへ行き、十字架にかかることを予言してゐた。彼のモオゼやエリヤと会つたのは彼の或精神的危機に佇《たたず》んでゐた証拠である。彼の顔は「日の如く輝き其《その》衣《ころも》は白く光」つたのも必しも二人のクリストたちの彼の前に下つた為ばかりではない。彼は彼の一生の中でも最もこの時は厳粛だつた。彼の伝記作者は彼等の間の問答を記録に残してゐない。しかし彼の投げつけた問は「我等は如何に生くべき乎《か》」である。クリストの一生は短かつたであらう。が、彼はこの時に、――やつと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみを嘗《な》めてゐた。モオゼはナポレオンも言つたやうに戦略に長じた将軍である。エリヤも亦クリストよりも政治的天才に富んでゐたであらう。のみならず今日は昨日ではない。今日ではもう紅海の波も壁のやうに立たなければ、炎の車も天上から来ないのである。クリストは彼等と問答しながら、愈《いよいよ》彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはゐられなかつた。天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳《そび》えてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴《ざくろ》や無花果《いちじゆく》も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気《ひとけ》のない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。「山を下る時イエス彼等(ペテロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ)に命じて人の子の死より甦《よみがへ》るまでは汝等の見し事を人に告ぐべからずと言へり。」――天に近い山の上にクリストの彼に先立つた「大いなる死者たち」と話をしたのは実に彼の日記にだけそつと残したいと思ふことだつた。
26[#「26」は縦中横] 幼な児の如く
クリストの教へた逆説の一つは「我まことに汝等に告げん。若《も》し改まりて幼な児の如くならずば天国に入ることを得じ」である。この言葉は少しも感傷主義的ではない。クリストはこの言葉の中に彼自身の誰よりも幼な児に近いことを現してゐる。同時に又聖霊の子供だつた彼自身の立ち場を明らかにしてゐる。ゲエテは彼
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