フ「タツソオ」の中にやはり聖霊の子供だつた彼自身の苦しみを歌ひ上げた。「幼な児の如くあること」は幼稚園時代にかへることである。クリストの言葉に従へば、誰かの保護を受けなければ、人生に堪《た》へないものの外は黄金の門に入ることは出来ない。そこには又世間智に対する彼の軽蔑も忍びこんでゐる。彼の弟子たちは正直に[#「正直に」に傍点](幼な児を前にしたクリストの図の我々に不快を与へるのは後代の偽善的感傷主義の為である。)彼の前に立つた幼な児に驚かない訣《わけ》には行かなかつたであらう。
27[#「27」は縦中横] イエルサレムへ
クリストは一代の予言者になつた。同時に又彼自身の中の予言者は、――或は彼を生んだ聖霊はおのづから彼を飜弄《ほんろう》し出した。我々は蝋燭《らふそく》の火に焼かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯《ただ》蛾の一匹に生まれた為に蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも亦蛾と変ることはない。シヨウは十字架に懸けられる為にイエルサレムへ行つたクリストに雷に似た冷笑を与へてゐる。しかしクリストはイエルサレムへ驢馬を駆《か》つてはひる前に彼の十字架を背負つてゐた。それは彼にはどうすることも出来ない運命に近いものだつたであらう。彼はそこでも天才だつたと共にやはり畢《つひ》に「人の子」だつた。のみならずこの事実は数世紀を重ねた「メシア」と云ふ言葉のクリストを支配してゐたことを教へてゐる。樹の枝を敷いた道の上に「ホザナよ、ホザナよ」の声に打たれながら、驢馬を走らせて行つたクリストは彼自身だつたと共にあらゆるイスラエルの予言者たちだつた。彼の後に生まれたクリストの一人は遠いロオマの道の上に再生したクリストに「どこへ行く?」と詰《なじ》られたことを伝へてゐる。クリストも亦イエルサレムへ行かなかつたとすれば、やはり誰か予言者たちの一人に「どこへ行く?」と詰られたことであらう。
28[#「28」は縦中横] イエルサレム
クリストはイエルサレムへはひつた後、彼の最後の戦ひをした。それは水々しさを欠いてゐたものの、何か烈しさに満ちたものである。彼は道ばたの無花果《いちじゆく》を呪つた。しかもそれは無花果の彼の予期を裏切つて一つも実をつけてゐない為だつた。あらゆるものを慈《いつくし》んだ彼もここでは半ばヒステリツクに彼の破壊力を揮《ふる》つてゐる。
「カイゼルのものはカイゼルに返せ。」
それはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。彼に復讐し出した人生に対する(彼は勿論人生よりも天国を重んじた詩人だつた。)老成人クリストの言葉である。そこに潜んでゐるものは必しも彼の世間智ばかりではない。彼はモオゼの昔以来、少しも変らない人間愚に愛想を尽かしてゐたことであらう。が、彼の苛立《いらだ》たしさは彼にエホバの「殿《みや》に入りてその中にをる売買《うりかひ》する者を殿《みや》より逐出《おひだ》し、兌銀者《りやうがへするもの》の案《だい》、鴿《はと》を売者《うるもの》の椅子《こしかけ》」を倒させてゐる。
「この殿《みや》も今に壊れてしまふぞ。」
或女人はかう云ふ彼の為に彼の額へ香油を注いだりした。クリストは彼の弟子たちにこの女人を咎《とが》めないことを命じた。それから――十字架と向かひ合つたクリストの気もちは彼を理解しない彼等に対する、優しい言葉の中に忍びこんでゐる。彼は香油を匂はせたまま、(それは土埃りにまみれ勝ちな彼には珍らしい出来事の一つに違ひなかつた。)静かに彼等に話しかけた。
「この女人はわたしを葬る為にわたしに香油を注いだのだ。わたしはいつもお前たちと一しよにゐることの出来るものではない。」
ゲツセマネの橄欖《かんらん》はゴルゴタの十字架よりも悲壮である。クリストは死力を揮ひながら、そこに彼自身とも、――彼自身の中の聖霊とも戦はうとした。ゴルゴタの十字架は彼の上に次第に影を落さうとしてゐる。彼はこの事実を知り悉《つく》してゐた。が、彼の弟子たちは、――ペテロさへ彼の心もちを理解することは出来なかつた。クリストの祈りは今日でも我々に迫る力を持つてゐる。――
「わが父よ、若し出来るものならば、この杯《さかづき》をわたしからお離し下さい。けれども仕かたはないと仰有るならば、どうか御心のままになすつて下さい。」
あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂《うれへ》て死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。…………
29[#「29」は縦中横] ユダ
後代はいつかユダの上にも悪の円光を輝かせてゐる。しかしユダは必しも十二人の弟子たちの中でも特に悪かつた訣《わけ》ではない。ペテロさへ庭鳥《にはとり》の声を挙げる前に三度
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング