Nリストを知らないと言つてゐる。ユダのクリストを売つたのはやはり今日の政治家たちの彼等の首領を売るのと同じことだつたであらう。パピニも亦ユダのクリストを売つたのを大きい謎に数へてゐる。が、クリストは明らかに誰にでも売られる危機に立つてゐた。祭司の長《をさ》たちはユダの外にも何人かのユダを数へてゐた筈《はず》である。唯ユダはこの道具になるいろいろの条件を具へてゐた。勿論それ等の条件の外に偶然も加はつてゐたことであらう。後代はクリストを「神の子」にした。それは又同時にユダ自身の中に悪魔を発見することになつたのである。しかしユダはクリストを売つた後、白楊の木に縊死《いし》してしまつた。彼のクリストの弟子だつたことは、――神の声を聞いたものだつたことは或はそこにも見られるかも知れない。ユダは誰よりも彼自身を憎んだ。十字架に懸つたクリストも勿論彼を苦しませたであらう。しかし彼を利用した祭司の長《をさ》たちの冷笑もやはり彼を憤《いきどほ》らせたであらう。「お前のしたいことをはたすが善《よ》い。」
 かう云ふユダに対するクリストの言葉は軽蔑と憐憫《れんびん》とに溢《あふ》れてゐる。「人の子」クリストは彼自身の中にも或はユダを感じてゐたかも知れない。しかしユダは不幸にもクリストのアイロニイを理解しなかつた。

     30[#「30」は縦中横] ピラト

 ピラトはクリストの一生には唯偶然に現れたものである。彼は畢《つひ》に代名詞に過ぎない。後代も亦この官吏に伝説的色彩を与へてゐる。しかしアナトオル・フランスだけはかう云ふ色彩に欺《あざむ》かれなかつた。

     31[#「31」は縦中横] クリストよりもバラバを

 クリストよりもバラバを――それは今日でも同じことである。バラバは叛逆を企てたであらう。同時に又人々を殺したであらう。しかし彼等はおのづから彼の所業を理解してゐる。ニイチエは後代のバラバたちを街頭の犬に比《たと》へたりした。彼等は勿論バラバの所業に憎しみや怒りを感じてゐたであらう。が、クリストの所業には、――恐らくは何も感じなかつたであらう。若《も》し何か感じてゐたとすれば、それは彼等の社会的に感じなければならぬと思つたものである。彼等の精神的奴隷たちは、――肉体だけ逞《たくま》しい兵卒たちはクリストに荊《いばら》の冠《かんむり》をかむらせ、紫の袍《ほう》をまとはせた上、「ユダヤの王安かれ」と叫んだりした。クリストの悲劇はかう言ふ喜劇のただ中にあるだけに見じめである。クリストは正に精神的にユダヤの王だつたのに違ひない。が、天才を信じない犬たちは――いや、天才を発見することは手易《たやす》いと信じてゐる犬たちはユダヤの王の名のもとに真のユダヤの王を嘲《あざけ》つてゐる。「方伯《つかさ》のいと奇《あや》しとするまでにイエス一言《ひとこと》も答へせざりき。」――クリストは伝記作者の記した通り、彼等の訊問《じんもん》や嘲笑には何の答へもしなかつたであらう。のみならず何の答へをすることも出来なかつたことは確かである。しかしバラバは頭を挙げて何ごとも明らかに答へたであらう。バラバは唯彼の敵に叛逆してゐる。が、クリストは彼自身に、――彼自身の中のマリアに叛逆してゐる。それはバラバの叛逆よりも更に根本的な叛逆だつた。同時に又「人間的な、余りに人間的な」叛逆だつた。

     32[#「32」は縦中横] ゴルゴタ

 十字架の上のクリストは畢《つひ》に「人の子」に外ならなかつた。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?」
 勿論英雄崇拝者たちは彼の言葉を冷笑するであらう。況《いはん》や聖霊の子供たちでないものは唯彼の言葉の中に「自業自得」を見出すだけである。「エリ、エリ、ラマサバクタニ」は事実上クリストの悲鳴に過ぎない。しかしクリストはこの悲鳴の為に一層我々に近づいたのである。のみならず彼の一生の悲劇を一層現実的に教へてくれたのである。

     33[#「33」は縦中横] ピエタ

 クリストの母、年をとつたマリアはクリストの死骸の前に歎いてゐる。――かう云ふ図の 〔Pie'ta〕 と呼ばれるのは必しも感傷主義的と言ふことは出来ない。唯ピエタを描かうとする画家たちはマリア一人だけを描かなければならぬ。

     34[#「34」は縦中横] クリストの友だち

 クリストは十二人の弟子たちを持つてゐた。が、一人も友だちは持たずにゐた。若し一人でも持つてゐたとすれば、それはアリマタヤのヨセフである。「日暮るる時尊き議員なるアリマタヤのヨセフと云へる者来れり。この人は神の国を望めるものなり[#「この人は神の国を望めるものなり」に傍点]。彼はばからずピラトに往きてイエスの屍《しかばね》を乞《ねが》ひたり。」――マタイよりも古いと伝へら
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