云う事です。」
 老紳士はほとんど厳粛に近い調子で、のしかかるように云い切った。日頃から物に騒がない本間さんが、流石《さすが》に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度|脅《おびやか》されても、このくらいな事でその権威を失墜しはしない。思わず、M・C・Cの手を口からはなした本間さんは、またその煙をゆっくり吸いかえしながら、怪しいと云う眼つきをして、無言のまま、相手のつんと高い鼻のあたりを眺めた。
「こう云う事実に比べたら、君の史料の如きは何ですか。すべてが一片の故紙《こし》に過ぎなくなってしまうでしょう。西郷隆盛は城山で死ななかった。その証拠には、今この上り急行列車の一等室に乗り合せている。このくらい確かな事実はありますまい。それとも、やはり君は生きている人間より、紙に書いた文字の方を信頼しますか。」
「さあ――生きていると云っても、私が見たのでなければ、信じられません。」
「見たのでなければ?」
 老紳士は傲然《ごうぜん》とした調子で、本間さんの語《ことば》を繰返した。そうして徐《おもむろ》にパイプの灰をはたき出した。
「そうです。見たのでなければ。」
 本間さんはまた勢いを盛返し
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