紳士は、一向《いっこう》辟易《へきえき》したらしい景色《けしき》を現さない。鉄縁の鼻眼鏡の後《うしろ》には、不相変《あいかわらず》小さな眼が、柔らかな光をたたえながら、アイロニカルな微笑を浮べている。その眼がまた、妙に本間さんの論鋒《ろんぽう》を鈍らせた。
「成程《なるほど》、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。」
 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とこう云った。
「そうしてその仮定と云うのは、今君が挙げた加治木常樹《かちきつねき》城山籠城調査筆記とか、市来四郎《いちきしろう》日記とか云うものの記事を、間違のない事実だとする事です。だからそう云う史料は始めから否定している僕にとっては、折角《せっかく》の君の名論も、徹頭徹尾ノンセンスと云うよりほかはない。まあ待ち給え。それは君はそう云う史料の正確な事を、いろいろの方面から弁護する事が出来るでしょう。しかし僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。」
 本間さんは、聊《いささ》か煙に捲かれて、ちょいと返事に躊躇した。
「それは西郷隆盛が僕と一しょに、今この汽車に乗っていると
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