また立派に正確な史料で通っています。だから余程史料の取捨を慎《つつし》まないと、思いもよらない誤謬を犯すような事になる。君も第一に先《まず》、そこへ気をつけた方が好《い》いでしょう。」
本間さんは向うの態度や口ぶりから推して、どうもこの忠告も感謝して然る可きものか、どうか判然しないような気がしたから、白葡萄酒を嘗《な》め嘗め、「ええ」とか何とか、至極|曖昧《あいまい》な返事をした。が、老紳士は少しも、こっちの返事などには、注意しない。折からウェエタアが持って来たウイスキイで、ちょいと喉《のど》を沾《うるお》すと、ポケットから瀬戸物のパイプを出して、それへ煙草をつめながら、
「もっとも気をつけても、あぶないかも知れない。こう申すと失礼のようだが、それほどあの戦争の史料には、怪しいものが、多いのですね。」
「そうでしょうか。」
老紳士は黙って頷きながら、燐寸《まっち》をすってパイプに火をつけた。西洋人じみた顔が、下から赤い火に照らされると、濃い煙が疎《まばら》な鬚をかすめて、埃及《エジプト》の匂をぷんとさせる。本間さんはそれを見ると何故か急にこの老紳士が、小面憎《こづらにく》く感じ出した。酔っているのは勿論、承知している。が、いい加減な駄法螺《だぼら》を聞かせられて、それで黙って恐れ入っては、制服の金釦《きんボタン》に対しても、面目が立たない。
「しかし私には、それほど特に警戒する必要があるとは思われませんが――あなたはどう云う理由で、そうお考えなのですか。」
「理由? 理由はないが、事実がある。僕はただ西南戦争の史料を一々綿密に調べて見た。そうしてその中から、多くの誤伝を発見した。それだけです。が、それだけでも、十分そう云われはしないですか。」
「それは勿論、そう云われます。では一つ、その御発見になった事実を伺いたいものですね。私なぞにも大いに参考になりそうですから。」
老紳士はパイプを銜《くわ》えたまま、しばらく口を噤《つぐ》んだ。そうして眼を硝子窓の外へやりながら、妙にちょいと顔をしかめた。その眼の前を横ぎって、数人の旅客の佇《たたず》んでいる停車場が、くら暗と雨との中をうす明く飛びすぎる。本間さんは向うの気色《けしき》を窺《うかが》いながら、腹の中でざまを見ろと呟きたくなった。
「政治上の差障《さしさわ》りさえなければ、僕も喜んで話しますが――万一秘密の洩れた事が、山県公《やまがたこう》にでも知れて見給え。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」
老紳士は考え考え、徐《おもむろ》にこう云った。それから鼻眼鏡の位置を変えて、本間さんの顔を探るような眼で眺めたが、そこに浮んでいる侮蔑《ぶべつ》の表情が、早くもその眼に映ったのであろう。残っているウイスキイを勢いよく、ぐいと飲み干すと、急に鬚だらけの顔を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、ほとんど噛《か》みつきでもしそうな調子で、囁いた。
「もし君が他言《たごん》しないと云う約束さえすれば、その中の一つくらいは洩《も》らしてあげましょう。」
今度は本間さんの方で顔をしかめた。こいつは気違いかも知れないと云う気が、その時|咄嗟《とっさ》に頭をかすめたからである。が、それと同時に、ここまで追窮して置きながら、見す見すその事実なるものを逸してしまうのが、惜しいような、心もちもした。そこへまた、これくらいな嚇《おど》しに乗せられて、尻込みするような自分ではないと云う、子供じみた負けぬ気も、幾分かは働いたのであろう。本間さんは短くなったM・C・Cを、灰皿の中へ抛《ほう》りこみながら、頸《くび》をまっすぐにのばして、はっきりとこう云った。
「では他言しませんから、その事実と云うのを伺わせて下さい。」
「よろしい。」
老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でじっと本間さんの顔を見た。今まで気がつかずにいたが、これは気違いの眼ではない。そうかと云って、世間一般の平凡な眼とも違う。聡明な、それでいてやさしみのある、始終何かに微笑を送っているような、朗然《ろうぜん》とした眼である。本間さんは黙って相手と向い合いながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはいられなかった。が、勿論老紳士は少しもそんな事には気がつかない。青い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞《めぐ》って消えてしまうと、その煙の行方を見送るように、静に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂《ただよわ》せながら、頭を稍《やや》後へ反《そ》らせてほとんど独り呟くように、こんな途方もない事を云い出した。
「細《こま》かい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山《しろやま》の戦《たたかい》では死ななかったと云う事です。」
これを聞くと本間
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