「ははあ、史学。君もドクタア・ジョンソンに軽蔑される一人ですね。ジョンソン曰《いわく》、歴史家は almanac−maker にすぎない。」
 老紳士はこう云って、頸《くび》を後《うしろ》へ反《そ》らせながら、大きな声を出して笑い出した。もう大分《だいぶ》酔《よい》がまわっているのであろう。本間さんは返事をしずに、ただにやにやほほ笑みながら、その間に相手の身のまわりを注意深く観察した。老紳士は低い折襟に、黒いネクタイをして、所々すりきれたチョッキの胸に太い時計の銀鎖《ぎんぐさり》を、物々しくぶらさげている。が、この服装のみすぼらしいのは、決して貧乏でそうしているのではないらしい。その証拠には襟でもシャツの袖口でも、皆新しい白い色を、つめたく肉の上へ硬《こわ》ばらしている。恐らく学者とか何とか云う階級に属する人なので、完《まった》く身なりなどには無頓着なのであろう。
「オールマナック・メエカア。正にそれにちがいない。いや僕の考える所では、それさえ甚だ疑問ですね。しかしそんな事は、どうでもよろしい。それより君の特に研究しようとしているのは、何ですか。」
「維新史です。」
「すると卒業論文の題目も、やはりその範囲内にある訳ですね。」
 本間さんは何だか、口頭試験でもうけているような心もちになった。この相手の口吻《こうふん》には、妙に人を追窮するような所があって、それが結局自分を飛んでもない所へ陥れそうな予感が、この時ぼんやりながらしたからである。そこで本間さんは思い出したように、白葡萄酒の杯をとりあげながら、わざと簡単に「西南《せいなん》戦争を問題にするつもりです」と、こう答えた。
 すると老紳士は、自分も急に口ざみしくなったと見えて、体を半分|後《うしろ》の方へ※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じまげると、怒鳴りつけるような声を出して、「おい、ウイスキイを一杯」と命令した。そうしてそれが来るのを待つまでもなく、本間さんの方へ向き直って、鼻眼鏡の後に一種の嘲笑の色を浮べながら、こんな事をしゃべり出した。
「西南戦争ですか。それは面白い。僕も叔父があの時賊軍に加わって、討死をしたから、そんな興味で少しは事実の穿鑿《せんさく》をやって見た事がある。君はどう云う史料に従って、研究されるか、知らないが、あの戦争については随分誤伝が沢山あって、しかもその誤伝が
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング