急にこっちへはいって来そうな気がしないでもない。あるいは白いテエブル・クロオスの上に、行儀よく並んでいる皿やコップが、汽車の進行する方向へ、一時に辷り出しそうな心もちもする。それがはげしい雨の音と共に、次第に重苦しく心をおさえ始めた時、本間さんは物に脅《おびやか》されたような眼をあげて、われ知らず食堂車の中を見まわした。鏡をはめこんだカップ・ボオド、動きながら燃えている幾つかの電燈、菜の花をさした硝子の花瓶、――そんな物が、いずれも耳に聞えない声を出して、ひしめいてでもいるように、慌しく眼にはいって来る。が、それらのすべてよりも本間さんの注意を惹《ひ》いたものは、向うのテエブルに肘《ひじ》をついて、ウイスキイらしい杯を嘗《な》めている、たった一人の客であった。
客は斑白《はんぱく》の老紳士で、血色のいい両頬には、聊《いささ》か西洋人じみた疎《まばら》な髯を貯えている。これはつんと尖った鼻の先へ、鉄縁《てつぶち》の鼻眼鏡をかけたので、殊にそう云う感じを深くさせた。着ているのは黒の背広であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。――その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこっちへ眼をやった。本間さんは、その時、心の中で思わず「おや」と云うかすかな叫び声を発したのである。
それは何故かと云うと、本間さんにはその老紳士の顔が、どこかで一度見た事があるように思われた。もっとも実際の顔を見たのだか、写真で見たのだか、その辺ははっきりわからない。が、見た覚えは確かにある。そこで本間さんは、慌しく頭の中で知っている人の名前を点検した。
すると、まだその点検がすまない中に、老紳士はつと立上って、車の動揺に抵抗しながら、大股《おおまた》に本間さんの前へ歩みよった。そうしてそのテエブルの向うへ、無造作《むぞうさ》に腰を下すと、壮年のような大きな声を出して、「やあ失敬」と声をかけた。
本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚《おうよう》に一寸《ちょっと》頭を下げた。
「君は僕を知っていますか。なに知っていない? 知っていなければ、いなくってもよろしい。君は大学の学生でしょう。しかも文科大学だ。僕も君も似たような商売をしている人間です。事によると、同業組合の一人かも知れない。何です、君の専門は?」
「史学科です。
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング