れた事が、山県公《やまがたこう》にでも知れて見給え。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」
 老紳士は考え考え、徐《おもむろ》にこう云った。それから鼻眼鏡の位置を変えて、本間さんの顔を探るような眼で眺めたが、そこに浮んでいる侮蔑《ぶべつ》の表情が、早くもその眼に映ったのであろう。残っているウイスキイを勢いよく、ぐいと飲み干すと、急に鬚だらけの顔を近づけて、本間さんの耳もとへ酒臭い口を寄せながら、ほとんど噛《か》みつきでもしそうな調子で、囁いた。
「もし君が他言《たごん》しないと云う約束さえすれば、その中の一つくらいは洩《も》らしてあげましょう。」
 今度は本間さんの方で顔をしかめた。こいつは気違いかも知れないと云う気が、その時|咄嗟《とっさ》に頭をかすめたからである。が、それと同時に、ここまで追窮して置きながら、見す見すその事実なるものを逸してしまうのが、惜しいような、心もちもした。そこへまた、これくらいな嚇《おど》しに乗せられて、尻込みするような自分ではないと云う、子供じみた負けぬ気も、幾分かは働いたのであろう。本間さんは短くなったM・C・Cを、灰皿の中へ抛《ほう》りこみながら、頸《くび》をまっすぐにのばして、はっきりとこう云った。
「では他言しませんから、その事実と云うのを伺わせて下さい。」
「よろしい。」
 老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でじっと本間さんの顔を見た。今まで気がつかずにいたが、これは気違いの眼ではない。そうかと云って、世間一般の平凡な眼とも違う。聡明な、それでいてやさしみのある、始終何かに微笑を送っているような、朗然《ろうぜん》とした眼である。本間さんは黙って相手と向い合いながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはいられなかった。が、勿論老紳士は少しもそんな事には気がつかない。青い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞《めぐ》って消えてしまうと、その煙の行方を見送るように、静に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂《ただよわ》せながら、頭を稍《やや》後へ反《そ》らせてほとんど独り呟くように、こんな途方もない事を云い出した。
「細《こま》かい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山《しろやま》の戦《たたかい》では死ななかったと云う事です。」
 これを聞くと本間
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