正岡子規
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)北原《きたはら》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|業腹《ごふはら》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》
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 北原《きたはら》さん。
「アルス新聞」に子規《しき》のことを書けと云ふ仰《あふ》せは確《たしか》に拝誦しました。子規のことは仰せを受けずとも書きたいと思つてゐるのですが、今は用の多い為に到底《たうてい》書いてゐる暇《ひま》はありません。が、何《なん》でも書けと云はれるなら、子規に関する夏目《なつめ》先生や大塚《おほつか》先生の談片を紹介しませう。これは子規を愛する人人には間《ま》に合せの子規論を聞かせられるよりも興味のあることと思ひますから。

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「墨汁一滴《ぼくじふいつてき》」だか「病牀《びやうしやう》六尺」だかどちらだかはつきり覚えてゐません。しかし子規《しき》はどちらかの中に夏目先生と散歩に出たら、先生の稲を知らないのに驚いたと云ふことを書いてゐます。或時この稲の話を夏目先生の前へ持ち出すと、先生は「なに、稲は知つてゐた」と云ふのです。では子規の書いたことは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》だつたのですかと反問すると「あれも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]ぢやないがね」と云ふのです。知らなかつたと云ふのもほんたうなら、知つてゐたと云ふのもほんたうと云ふのはどうも少し可笑《をか》しいでせう。が、先生自身の説明によると、「僕も稲から米のとれる位のことはとうの昔に知つてゐたさ。それから田圃《たんぼ》に生える稲も度《たび》たび見たことはあるのだがね。唯その田圃《たんぼ》に生えてゐる稲は米のとれる稲だと云ふことを発見することが出来なかつたのだ。つまり頭の中にある稲と眼の前にある稲との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかつたのだがね。だから正岡《まさをか》の書いたことは一概《いちがい》に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]とも云はなければ、一概にほんたうとも云はれないさ」!

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