唯女がゐると云ふだけで、(廓《くるわ》のかへりではあるし)それが格別痛切にさう思つてゐた訳でも何でもない。だから、伽羅の油のにほひを嗅《か》ぐと、私は、まづ意外な感じがした。さうしてその意外の感じの後《あと》には、すぐに一種の刺戟を感じた。
唯にほひだからと云つても、決して馬鹿にしたものではない。少くとも私にとつては、大抵な事が妙に嗅覚と関係を持つてゐる。早い話が子供の時の心もちだ。手習《てならひ》に行くと、よくいたづらつ子にいぢめられる。それも、師匠に云ひつければ、後《あと》の祟《たたり》が恐ろしい。そこで、涙をのみこんで、一生懸命に又、草紙《さうし》をよごしに行く。さう云ふ時のさびしい、たよりのない心もちは、成人《おとな》になるにつれて、忘れてしまふ。或は思ひ出さうとしても、容易に思ひ出し悪《にく》い。それが腐つた灰墨《はひずみ》のにほひを嗅《か》ぐと、何時でも私には、そんな心もちがかへつて来る。さうして、子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる。――が、これは余事だ。私は唯、伽羅の油のにほひが、急にこの女房の方へ、私の注意を持つて行つた事さへ話せばよい。
さて
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