には私ばかりか、太鼓たちも聊《いささか》たじろいだらしい。
「唐人の『すててん節』は、はじめてでげす。」
 一人が、扇をぱちつかせながら、情ない声を出して、かう云つた。すると、それが聞えたのだらう。私と向ひあつてゐた女房が、ちよいと耳の垢とりの方を見ると、すぐその眼を私にかへして、鉄漿《かね》をつけた歯を見せながら、愛想よく微笑した。黒い、つやつやした歯が、ちらりと唇を洩れたかと思ふと、右の頬にあさく靨《ゑくぼ》が出来る。唇には紅がぬつてあるらしい。――それを見ると、私は妙にへどもどして、悪い事でも見つけられた時のやうな、一種の羞恥《しうち》に襲はれてしまつた。
 が、かう云つたばかりでは、唐突すぎる。曰《いは》くは、この舟へ乗つたそもそもからあつたのだから。――と云ふのは、最初、土手を下りて、あぶなつかしい杭《くひ》を力に、やつと舟へ乗つたと思ふと、足のふみどころが悪かつたので、舷《ふなべり》が水をあほると同時に、大きく一つぐらりとゆれる。その拍子に、伽羅《きやら》の油のにほひが、ぷんと私の鼻を打つた。舟の中に、女がゐる――その位な事は、土手の上から川を見下した時に、知つてゐた。が、
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