考へて見ても、わかるだらう。それは私が昨日《きのふ》なじんだ吉原の太夫と、今の女房とを、私の心もちの上でくらべて見るとする。成程一人は一夜中《いちやぢゆう》一しよに語りあかした。一人は僅《わづか》の時間だけ、一つ舟に乗つてゐたのに過ぎない。が、その差別は、膚下一寸《ふかいつすん》でなくなつてしまふ。どちらが私に、より多く満足を与へたか、それは殆どわからない。従つて、私が持つて居る愛惜も(もしさう云ふものがあるとすれば)全く同じやうなものである。私は右の耳に江戸清掻《えどすがが》きの音《ね》を聞き、左の耳に角田川《すみだがは》の水の音を聞いてゐるやうな心もちがした。さうしてそれが両方とも、同じ調子を出してゐるやうな心もちがした。
これは、私には兎も角も発見だつた。が、総じて、発見位、人間をさみしくするものはない。私は花曇りの下を、丁稚を伴《とも》につれて、その眉のあとの青い女房が、「ぬきあし中《なか》びねりのあるきかた」で、耳の垢とりの後《うしろ》から、桟橋を渡るのを見た時には、何とも云へずさびしかつた。勿論惚れた訳でも何でもない。唯向うでも大体私と同じやうな心もちでゐたと云ふ事は、私
前へ
次へ
全16ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング