世之助の話
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)世之助《よのすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この頃|西鶴《さいかく》が書いた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](大正六年四月)
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上
友だち 処でね、一つ承りたい事があるんだが。
世之助《よのすけ》 何だい。馬鹿に改まつて。
友だち それがさ。今日はふだんとちがつて、君が近々《きんきん》に伊豆の何とか云ふ港から船を出して、女護《によご》ヶ島《しま》へ渡らうと云ふ、その名残りの酒宴だらう。
世之助 さうさ。
友だち だから、こんな事を云ひ出すのは、何だか一座の興を殺《そ》ぐやうな気がして、太夫《たいふ》の手前も、聊《いささか》恐縮なんだがね。
世之助 そんならよせばいいぢやないか。
友だち 処が、よせないね。よせる位なら、始から云ひ出しはしない。
世之助 ぢや話すさ。
友だち それがさ、さう中々簡単には行かない訳がある。
世之助 何故?
友だち 尋《き》く方も、尋かれる方も、あんまり難有《ありがた》い事ぢやないからね。尤《もつと》も君が愈《いよいよ》いいと云へば、私も度胸を据ゑて、承る事にするが。
世之助 何だい、一体。
友だち まあさ、君は何だと思ふ。
世之助 ぢれつたい男だな。何だつて云へば。
友だち いやさう開き直られると、反《かへ》つて云ひ出しにくいがね。つまり何さ。――この頃|西鶴《さいかく》が書いた本で見ると、君は七つの時から女を知つて……、
世之助 おい、おい、まさか意見をする気ぢやあるまいね。
友だち 大丈夫、叔父さんがまだ若すぎる。――そこで、六十歳の今日《こんにち》まで、三千七百四十二人の女に戯れ……
世之助 こいつはちと手きびしいな。
友だち まあさ、三千七百四十二人の女に戯れ、七百二十五人の少人《せうじん》を弄《もてあそ》んだと云ふ事だが、あれは君、ほんたうかい。
世之助 ほんたうだよ。ほんたうだが、精々《せいぜい》お手柔《てやはら》かに願ひたいな。
友だち それが、どうも私には少し真《ま》にうけられないんだね。いくら何だつて君、三千七百四十二人は多すぎるよ。
世之助 成程ね。
友だち いくら君を尊敬した上でもだよ。
世之助 ぢや勝手に割引して置くさ。――太夫《たいふ》が笑つてゐるぜ。
友だち いくら太夫が笑つてゐても、この儘《まま》にはすまされない。白状すればよし、さもなければ、――
世之助 盛りつぶすか。そいつは御免を蒙《かうむ》らう。何もそんなにむづかしい事ぢやない。唯、私の算盤《そろばん》が、君のと少しちがつてゐるだけなんだ。
友だち ははあ、すると一桁《ひとけた》狂つたと云ふ次第かい。
世之助 いいえ。
友だち ぢや――おい、どつちがぢれつたい男だつけ。
世之助 だが君も亦、つまらない事を気にしたもんだ。
友だち 気にするつて訳ぢやないが、私だつて男だらうぢやないか。何割引くか判然しない中は首を切られても、引きさがらない。
世之助 困つた男だな。それならお名残りに一つ、私の算盤のとり方を話さうか。――おい、加賀節はしばらく見合せだ。その祐善《すけよし》の絵のある扇をこつちへよこしてくれ。それから、誰か蝋燭《らふそく》の心《しん》を切つて貰ひたいな。
友だち いやに大袈裟《おほげさ》だぜ――かう静になつて見ると、何だか桜もさむいやうだ。
世之助 ぢや、始めるがね。勿論唯一例を話すだけなんだから、どうかそのつもりに願ひたい。
中
もう彼是《かれこれ》三十年ばかり昔の事だ。私が始めて、江戸へ下つた時に、たしか吉原のかへりだつたと思ふが、太鼓を二人ばかりつれて、角田川《すみだがは》の渡しを渡つた事がある。どこの渡しだつたか、それも今では覚えてゐない。どこへ行くつもりだつたか、それももう忘れてしまつた。が、その時の容子《ようす》だけは、かう云ふ中《うち》にも、朧《おぼろ》げながら眼の前へ浮んで来る。……
何でも花曇りの午《ひる》すぎで、川すぢ一帯、どこを見ても、煮え切らない、退屈な景色だつた。水も生ぬるさうに光つてゐれば、向う河岸《がし》の家並《やなみ》も、うつらうつら夢を見てゐるやうに思はれる。後《うしろ》をふり返ると、土手の松にまじつて、半開の桜が、べつたり泥絵具《どろゑのぐ》をなすつてゐた。その又やけに白いのが、何時《いつ》になく重くるしい。その上少し時候はづれの暖さで、体さへ動かせば、すぐじつとりと汗がにじむ。勿論さう云ふ陽気だから、水の上にも、吐息《といき》程の風さへない。
乗合は三人で、一人は国姓爺《こくせんや》の人形芝居からぬけ出して来たやうな、耳の垢《あか》取り、一人は廿七八の、眉をおとし
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