た町家《ちやうか》の女房、もう一人はその伴《とも》らしい、洟《はな》をたらした丁稚《でつち》だつた。それが互に膝をつき合せて凡《およそ》まん中どころに蹲《うづくま》つたが、何分舟が小さいので、窮屈な事|夥《おびただ》しい。そこへ又人が多すぎたせゐか、ともすれば、舷《ふなべり》が水にひたりさうになる。が、船頭は一向平気なもので、無愛想な老爺《おやぢ》の、竹の子笠をかぶつたのが、器用に右左へ棹《さを》を使ふ。おまけにその棹の雫《しづく》が、時々乗合の袖にかかるが、船頭はこれにも頓着する容子がない。――いや、平気なのは、まだ外にもある。それは例の甘輝《かんき》字《あざな》は耳の垢とりで、怪しげな唐装束《からしやうぞく》に鳥の羽毛《はね》のついた帽子をかぶりながら、言上《ことあ》げの幟《のぼり》を肩に、獅子ヶ城の櫓《やぐら》へ上《のぼ》つたと云ふ形で、舳《みよし》の先へ陣どつたのが、船の出た時から、つけ髯《ひげ》をしごいては、しきりに鼻唄をうたつてゐる。眉のうすい、うけ唇《くち》の、高慢な顔を、仔細らしくしやくりながら、「さん谷《や》土手下にぬしのない子がすててんある」と、そそるのだから、これには私ばかりか、太鼓たちも聊《いささか》たじろいだらしい。
「唐人の『すててん節』は、はじめてでげす。」
一人が、扇をぱちつかせながら、情ない声を出して、かう云つた。すると、それが聞えたのだらう。私と向ひあつてゐた女房が、ちよいと耳の垢とりの方を見ると、すぐその眼を私にかへして、鉄漿《かね》をつけた歯を見せながら、愛想よく微笑した。黒い、つやつやした歯が、ちらりと唇を洩れたかと思ふと、右の頬にあさく靨《ゑくぼ》が出来る。唇には紅がぬつてあるらしい。――それを見ると、私は妙にへどもどして、悪い事でも見つけられた時のやうな、一種の羞恥《しうち》に襲はれてしまつた。
が、かう云つたばかりでは、唐突すぎる。曰《いは》くは、この舟へ乗つたそもそもからあつたのだから。――と云ふのは、最初、土手を下りて、あぶなつかしい杭《くひ》を力に、やつと舟へ乗つたと思ふと、足のふみどころが悪かつたので、舷《ふなべり》が水をあほると同時に、大きく一つぐらりとゆれる。その拍子に、伽羅《きやら》の油のにほひが、ぷんと私の鼻を打つた。舟の中に、女がゐる――その位な事は、土手の上から川を見下した時に、知つてゐた。が、唯女がゐると云ふだけで、(廓《くるわ》のかへりではあるし)それが格別痛切にさう思つてゐた訳でも何でもない。だから、伽羅の油のにほひを嗅《か》ぐと、私は、まづ意外な感じがした。さうしてその意外の感じの後《あと》には、すぐに一種の刺戟を感じた。
唯にほひだからと云つても、決して馬鹿にしたものではない。少くとも私にとつては、大抵な事が妙に嗅覚と関係を持つてゐる。早い話が子供の時の心もちだ。手習《てならひ》に行くと、よくいたづらつ子にいぢめられる。それも、師匠に云ひつければ、後《あと》の祟《たたり》が恐ろしい。そこで、涙をのみこんで、一生懸命に又、草紙《さうし》をよごしに行く。さう云ふ時のさびしい、たよりのない心もちは、成人《おとな》になるにつれて、忘れてしまふ。或は思ひ出さうとしても、容易に思ひ出し悪《にく》い。それが腐つた灰墨《はひずみ》のにほひを嗅《か》ぐと、何時でも私には、そんな心もちがかへつて来る。さうして、子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる。――が、これは余事だ。私は唯、伽羅の油のにほひが、急にこの女房の方へ、私の注意を持つて行つた事さへ話せばよい。
さて、気がついて、相手を見ると、黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖に裾取《すそとり》の紅《もみ》うらをやさしく出した、小肥《こぶと》りな女だつた。が、唐織寄縞《からおりよせじま》の帯を前でむすんだ所と云ひ、投島田《なげしまだ》に平元結《ひらもとゆひ》をかけて対《つゐ》のさし櫛《ぐし》をした所と云ひ、素人《しろうと》とは思はれない位な、なまめかしさだ。顔はあの西鶴《さいかく》の、「当世の顔はすこしまろく、色はうすはな桜にて」と云ふやつだが、「面道具《おもてだうぐ》の四《よ》つ不足なく揃ひて」はちと覚束《おぼつか》ない。白粉《おしろい》にかくれてはゐるが、雀斑《そばかす》も少々ある。口もとや鼻つきも、稍《やや》下品だつた。が、幸《さいはひ》生際《はえぎは》がいいので、さう云ふ難も、大して目に立たない。――私はまだ残つてゐた昨夜《ゆうべ》の酔が、急にさめたやうな心もちがして、その女の側へ腰を下した。その下した時に又、曰くがある。
曰くといふのは、私の膝が、先方の膝にさはつたのだ。私は卵色|縮緬《ちりめん》の小袖を着てゐる。下は多分肌着に、隠し緋無垢《ひむく》だつたらう。それでも、私には、向ふの膝が
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