わかつた。着物を着た膝ではない。体の膝がわかつたのだ。柔《やはらか》な円みの上に、かすかなくぼみが、うすく膚膩《あぶら》をためてゐる――その膝がわかつたのだ。
 私は、膝と膝とを合せたまま、太鼓を相手に気のない冗談を云ひながら、何かを待設けるやうな心もちで、ぢつと身動きもしないでゐた。勿論その間も、伽羅の油のにほひと、京おしろいのにほひとは、絶えず私の鼻を襲つて来る。そこへ、少したつ中には、今度は向ふの体温が、こちらの膝へ伝はつて来た。それを感じた時のむづ痒《がゆ》いやうな一種の戦慄《せんりつ》は、到底形容する語《ことば》がない。私は唯、それを私自身の動作に飜訳する事が出来るだけだ。――私は、眼を軽くつぶりながら、鼻の穴を大きくして、深くゆるやかな呼吸をした。それで君に、すべてを察して貰ふより外はない。
 が、さう云ふ感覚的な心もちは、すぐにもう少し智的な欲望をよび起した。先方も私と同じ心もちでゐるだらうか。同じ感覚的な快さを感じてゐるだらうか。――それはかう云ふ疑問だつた。そこで私は、顔をあげて、わざと、平気を装ひながら、ぢつと向ふの顔を見た。が、そのつけやきばの平気は、すぐに裏切られるやうな運命を持つてゐた。何故かと云ふと、相手の女房は、その稍《やや》汗ばんだ、顔の筋肉のゆるみ方と、吸ふものをさがしてゐるやうな、かすかな唇のふるへ方とで、私の疑問を明かに肯定してくれたから、さうして、その上に、私自身の心もちを知つてゐて、その知つてゐる事に、或満足を感じてゐる事さへも、わからせてくれたから――私は聊《いささ》か恐縮しながら、てれがくしに太鼓の方をふりむいた。
「唐人の『すててん節』は始《はじめ》てでげす。」
 太鼓がかう云つたのは、丁度その時だつた。耳の垢とりの鼻唄を笑つた女房と、私が思はず眼を見合せて、一種の羞恥を感じたのは、偶然でない。が、その羞恥は、当時、女房に対して感じた羞恥のやうな気がしてゐたが、後《あと》になつて考へて見ると、実は女房以外の人間に対して感じた羞恥だつた。いや、さう云つては、まだ語弊がある。人間がさう云ふ場合、一切の他人(この場合なら、女房も入れて)に対して感じる羞恥だつた。これは当時の私が、さう云ふ羞恥を感じながら、女房に対しては、次第により大胆になれたのも、わかりはしないだらうか。
 私は全身のあらゆる感覚を出来る丈鋭くしながら、香《かう》を品《ひん》する人のやうな態度で、相手の女房を「鑑賞した。」これは私が殆《ほとんど》すべての女に対してする事だから、大方君にも以前に話した事があるだらう。――私は稍汗ばんだ女の顔の皮膚と、その皮膚の放散するにほひとを味《あぢは》つた。それから、感覚と感情との微妙な交錯《かうさく》に反応する、みづみづしい眼の使ひを味つた。それから、血色のいい頬の上で、かすかに動いてゐる睫毛《まつげ》の影を味つた。それから、膝へのせた手の、うるほひのある、しなやかな、指のくみ方を味つた。それから、膝と腰とにわたる、むつちりした、弾力のある、ゆたかな肉づきを味つた。それから――かう話して行けば、際限がないから、やめにするが、兎に角私はその女房の体を、あらゆる点から味つた。敢て、あらゆる点と云つても、差支へはない。私は感官の力の足りない所を、想像の働きで補つた。或は、その上に又、推理の裏打さへも施した。私の視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温覚、圧覚、――どれ一つとして、この女房が満足させてくれなかつたものはない。いや実に、それ以上のものにさへ満足を与へてくれた。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「忘れものをおしでないよ。」
 それから、かう云ふ声を聞いた。さうしてそれと同時に、今まで見えなかつた、女の細い喉が見えた。その蓮葉《はすは》な、鼻にかかつた声と、白粉の少しむらになつた、肉のうすい喉とが、私に幾分の刺戟を与へるのは云ふまでもない。が、それよりも寧《むしろ》、私を動かしたのは、丁稚《でつち》の方へふりむいた時の動作が、私の膝へ伝へてくれる、相手の膝の動き方であつた。私は前に、向ふの膝がわかつたと云つた。が、今はそれだけではない。向ふの膝のすべてが――それをつくつてゐる筋肉と関節とが、九年母《くねんぼ》の実と核《たね》とを舌の先にさぐるやうに、一つ一つ私には感じられた。黒羽二重の小袖は、私にとつてないにひとしかつたと云つても、過言ではない。これは、すぐ次に起つた最後の曰《いは》くを知つたなら、君も認めない訳には行かないだらう。
 やがて、舟は桟橋《さんばし》についた。舳《みよし》がとんと杭《くひ》にあたると、耳の垢とりは、一番に向ふへとび上る。その
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