と言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。几董輩《きとうはい》の丈艸《ぢやうさう》を嗤《わら》つてゐるのは僣越《せんゑつ》も亦《また》甚しいと思ふ。

     二十九 袈裟と盛遠

「袈裟《けさ》と盛遠《もりとほ》」と云ふ独白《どくはく》体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は亘《わたる》の義理と盛遠の情《なさけ》とに迫られて、操《みさほ》を守る為に死を決した烈女である。それを盛遠との間《あひだ》に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果を来《きた》すだらう。自分は君の為にこれを取らない。」
 が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも何《なん》でもない。源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》の文覚発心《もんがくほつしん》の条《くだり》に、「はや来《きた》つて女と共に臥《ふ》し居たり、狭夜《さよ》も漸《やうやう》更け行きて云云《うんぬん》」と、ちやんと書いてある事である。
 それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あの憐《あはれ》む可《べ》き女《ぢよ》主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に改竄《かいざん》した罪は、あの小説を書いた自分になくして、寧《むし》ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支《さしつか》へない。改竄《かいざん》するしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて何時《いつ》でも、改竄者の焼印を押されようとするものである。

     三十 後世

 私《わたし》は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。
 公衆の批判は、常に正鵠《せいこう》を失《しつ》しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何《いか》に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日《こんにち》及び昨日《さくじつ》の公衆にして斯《か》くの如くんば、明日《みやうにち》の公衆の批判と雖《いへど》も亦《また》推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後《のち》よく砂と金《きん》とを辨じ得るかどうか、私は遺憾《ゐかん》ながら疑ひなきを得ないのである。
 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日《こんにち》の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日《みやうにち》の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確《たしか》である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程《なるほど》ダンテの地獄の火は、今も猶《なほ》東方の豎子《じゆし》をして戦慄《せんりつ》せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との間《あひだ》には、十四世紀の伊太利《イタリイ》なるものが雲霧《うんむ》の如くにたなびいてゐるではないか。
 況《いは》んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍《ふへん》の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底《てい》の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時時私は廿年の後《のち》、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆《うづだか》い埃《ほこり》に埋《うづ》もれて、神田《かんだ》あたりの古本屋の棚《たな》の隅に、空《むな》しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館《としよかん》にたつた一冊残つた儘、無残な紙魚《しぎよ》の餌《ゑさ》となつて、文字《もじ》さへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行《なんぎやう》かを読むと云ふ事がないであらうか。更《さら》に虫の好《い》い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が如何《いか》に私の信ずる所と矛盾《むじゆん》してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶《なほ》想像する。落莫《らくばく》たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人《いちにん》の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧《おぼろ》げなりとも浮び上る私の蜃気楼《しんきろう》のある事を。
 私は私の愚《ぐ》を嗤笑《しせう》すべき賢達《けんたつ》の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖《いへど》も私の愚を笑ふ点にかけては敢《あへ》て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地《いくぢ》なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。

     三十一 「昔」

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか何《なん》とか云ふと、甚《はなはだ》大袈裟《おほげさ》に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ換《かへ》れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来|裃《かみしも》をつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算《つもり》でお聴きを願ひたい。
 お伽噺《とぎばなし》を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」とか「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」とか書いてある。あれは何故《なぜ》であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文《ほんもん》に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺《とぎばなし》の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合《ぐあひ》が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば既《すで》に太古緬※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《たいこめんばく》の世だから、小指ほどの一寸法師《いつすんぼふし》が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別《かくべつ》矛盾《むじゆん》の感じが起らない。そこで予《あらかじ》め前へ「昔々」と食付《くつつ》けたのである。
 所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を採《と》るのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを捉《とら》へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い、もし強《しひ》て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果|折角《せつかく》のテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「今日《こんにち》この日本に起つた事としては書きこなし悪《にく》い」と云ふ語《ことば》が示してゐるやうに、昔か(未来は稀《まれ》であろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするより外《ほか》はない。僕の昔から材料を採つた小説は大抵《たいてい》この必要に迫られて、不自然の障碍《しやうがい》を避ける為に舞台を昔に求めたのである。
 しかしお伽噺《とぎばなし》と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には行《ゆ》かない。そこで略《ほぼ》時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に於《おい》て幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂《いはゆる》歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を目的《エンド》にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。
 序《ついで》につけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬《しようけい》は持つてゐない。僕は平安朝《へいあんてう》に生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、遙《はるか》に今日《こんにち》のこの日本に生れた事を難有《ありがた》く思つてゐる。
 それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには其外《そのほか》にすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔|其《その》ものの美しさが可也《かなり》影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔が勤《つと》めてゐる役割は、やはり「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」である、或は「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」である。

     三十二 徳川末期の文芸

 徳川末期の文芸は不真面目《ふまじめ》であると言はれてゐる。成程《なるほど》不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等|通人《つうじん》も肚《はら》の中では如何《いか》に人生の暗澹《あんたん》たるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を回避《くわいひ》する為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落《しや》れのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人《ひとり》、――たとへば宮武外骨《みやたけぐわいこつ》氏の山東京伝《さんとうきやうでん》を読んで見るが好《よ》い。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹《あんたん》たることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。
 これは何も黄表紙《きべうし》だの洒落本《しやれぼん》だのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴《きよくていばきん》さへも彼の勧善懲悪《くわんぜんちやうあく》主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村《あへばくわうそん》氏の編した馬琴日記抄|等《とう》によれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。森鴎外《もりおうぐわい》先生は確か馬琴日記抄の跋《ばつ》に「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王《せんわう》の道に信頼することが出来た」とか何《なん》とか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴も亦《また》先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。
 若し※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》と云ふことから言へば、彼等の作品は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》ばかりである。彼等は彼等自身と共に世間を欺《あざむ》いてゐたと言つても好《よ》い。しかし善や美に対する欣求《ごんぐ》は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西《フランス》のロココ王朝と共に実生活の隅隅《くまぐま》にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品に溢《あふ》れた空気は如何《いか》にも美しい(勿論多少|頽廃《たいはい》した)ものであらう。
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