の問題のみではない。人生に於《おい》ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主《ばうず》は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱《いだ》き得た坊主である。雲照《うんせう》さへ坊主の羅切《らせつ》を聞いては、「男根《だんこん》は須《すべから》く隆隆《りゆうりゆう》たるべし」と、弟子《でし》共に教へたと云ふではないか?
 我等の内にある一切《いつさい》のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一《ゆゐいち》の成仏《じやうぶつ》の道である。

     七 赤西蠣太

 或時|志賀直哉《しがなほや》氏の愛読者と、「赤西蠣太《あかにしかきた》の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺《さざえ》とか鱒次郎《ますじらう》とか安甲《あんかふ》とか、大抵《たいてい》魚貝《ぎよばい》の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程《なるほど》さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太
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