また》斯《か》くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。
 芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸《あくび》の出易いものである。

     六 一切不捨

 何《なん》の某《なにがし》は帽子《ばうし》ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ好《よ》いのだが、――かう云ふ言葉を做《な》す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分《すんぶん》も立派《りつぱ》になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延《まんえん》するばかりである。
 何《なん》の某《なにがし》の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫《くふう》をするより、上着もズボンも外套《ぐわいたう》も、上等ならしむる工夫《くふう》をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活《い》かすべき工夫をせねばならぬ。
 これは独り芸術上
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