に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗《きれい》だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑《さるみの》」の中に出てゐることは「澄江堂雑記《ちようかうだうざつき》」(随筆集「百艸《ひやくさう》」の中《なか》)に辯じて置いた。その後《ご》島木赤彦《しまきあかひこ》さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
[#天から2字下げ]秋風やとても芒《すすき》はうごくはず 三河《みかは》、子尹《しゐん》
しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬《ぞくしゆんかしうとう》」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。
[#天から2字下げ]市雛《いちびな》やとても数《かず》ある顔貌《かほかたち》 化羊《くわやう》
元禄《げんろく》の子尹《しゐん》は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊《くわやう》は何国《なんごく》の人であらうか。
二十八 丈艸の事
蕉門《せうもん》に龍象《りゆうざう》の多いことは言ふを待たない。しかし誰が最も的的《てきてき》と芭蕉《ばせを》の衣鉢《いはつ》を伝へたかと言へば恐らくは内藤丈艸《ないとうぢやうさう》であらう。少くとも発句《ほつく》は蕉門中、誰もこの俳諧の新発知《しんぽち》ほど芭蕉の寂《さ》びを捉《とら》へたものはない。近頃|野田別天楼《のだべつてんろう》氏の編した「丈艸集《ぢやうさうしふ》」を一読し、殊にこの感を深うした。
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前書《まへがき》略
木枕の垢《あか》や伊吹《いぶき》にのこる雪
大原《おほはら》や蝶の出て舞ふおぼろ月
谷風や青田《あをた》を廻《めぐ》る庵《いほ》の客《きやく》
小屏風《こびやうぶ》に山里涼し腹の上
雷《いなづま》のさそひ出してや火とり虫
草芝を出《い》づる螢《ほたる》の羽音《はおと》かな
鶏頭《けいとう》の昼をうつすやぬり枕
病人と撞木《しゆもく》に寝たる夜寒《よさむ》かな
蜻蛉《とんぼう》の来ては蝿とる笠の中《うち》
夜明《よあ》けまで雨吹く中や二つ星
榾《ほた》の火や暁《あかつき》がたの五六尺
[#ここで字下げ終わり]
是等《これら》の句は啻《ただ》に寂《さ》びを得たと言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。几董輩《きとうはい》の丈艸《ぢやうさう》を嗤《わら》つてゐるのは僣越《せんゑつ》も亦《また》甚しいと思ふ。
二十九 袈裟と盛遠
「袈裟《けさ》と盛遠《もりとほ》」と云ふ独白《どくはく》体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟は亘《わたる》の義理と盛遠の情《なさけ》とに迫られて、操《みさほ》を守る為に死を決した烈女である。それを盛遠との間《あひだ》に情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果を来《きた》すだらう。自分は君の為にこれを取らない。」
が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でも何《なん》でもない。源平盛衰記《げんぺいせいすゐき》の文覚発心《もんがくほつしん》の条《くだり》に、「はや来《きた》つて女と共に臥《ふ》し居たり、狭夜《さよ》も漸《やうやう》更け行きて云云《うんぬん》」と、ちやんと書いてある事である。
それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あの憐《あはれ》む可《べ》き女《ぢよ》主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に改竄《かいざん》した罪は、あの小説を書いた自分になくして、寧《むし》ろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支《さしつか》へない。改竄《かいざん》するしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて何時《いつ》でも、改竄者の焼印を押されようとするものである。
三十 後世
私《わたし》は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。
公衆の批判は、常に正鵠《せいこう》を失《しつ》しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何《いか》に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日《こんにち》及び昨日《さくじつ》の公衆にして斯《か》くの如くんば、明日《みやうにち》の公衆の批
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