判と雖《いへど》も亦《また》推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後《のち》よく砂と金《きん》とを辨じ得るかどうか、私は遺憾《ゐかん》ながら疑ひなきを得ないのである。
 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日《こんにち》の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日《みやうにち》の私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確《たしか》である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程《なるほど》ダンテの地獄の火は、今も猶《なほ》東方の豎子《じゆし》をして戦慄《せんりつ》せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我との間《あひだ》には、十四世紀の伊太利《イタリイ》なるものが雲霧《うんむ》の如くにたなびいてゐるではないか。
 況《いは》んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍《ふへん》の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底《てい》の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時時私は廿年の後《のち》、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆《うづだか》い埃《ほこり》に埋《うづ》もれて、神田《かんだ》あたりの古本屋の棚《たな》の隅に、空《むな》しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館《としよかん》にたつた一冊残つた儘、無残な紙魚《しぎよ》の餌《ゑさ》となつて、文字《もじ》さへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行《なんぎやう》かを読むと云ふ事がないであらうか。更《さら》に虫の好《い》い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己《ちき》を百代の後《のち》に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が如何《いか》に私の信ずる所と矛盾《むじゆん》してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶《なほ》想像する。落莫《らくばく》たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人《いちにん》の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧《おぼろ》げなりとも浮び上る私の蜃気楼《しんきろう》のある事を。
 私は私の愚《ぐ》を嗤笑《しせう》すべき賢達《けんたつ》の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖《いへど》も私の愚を笑ふ点にかけては敢《あへ》て人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地《いくぢ》なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。

     三十一 「昔」

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とか何《なん》とか云ふと、甚《はなはだ》大袈裟《おほげさ》に聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひ換《かへ》れば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来|裃《かみしも》をつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算《つもり》でお聴きを願ひたい。
 お伽噺《とぎばなし》を読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口を利《き》いてゐた時に」とか「ベルトが糸を紡《つむ》いでゐた時に」とか書いてある。あれは何故《なぜ》であらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文《ほんもん》に出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺《とぎばなし》の中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合《ぐあひ》が悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へば既《すで》に太古緬※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《たいこめんばく》の世だから、小指ほどの一寸法師《いつすんぼふし》が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別《かくべつ》矛盾《むじゆん》の感じが起らない。そこで予《あらかじ》め前へ「昔々」と食付《くつつ》けたのである。
 所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を採《と》るのは大半この「昔々
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