「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訣《わけ》ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏《まと》まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
 肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河《みかは》の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄《げんろく》四年に上梓《じやうし》された「猿蓑《さるみの》」の中に残つてゐる。
[#天から2字下げ]秋風《あきかぜ》やとても芒《すすき》はうごくはず 三河《みかは》、子尹《しゐん》
 すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間《あひだ》に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

     二十四 猫

 これは「言海《げんかい》」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)人家《ジンカ》ニ畜《カ》フ小《チヒ》サキ獣《ケモノ》。人《ヒト》ノ知《シ》ル所《トコロ》ナリ。温柔《ヲンジウ》ニシテ馴《ナ》レ易《ヤス》ク、又《マタ》能《ヨ》ク鼠《ネズミ》ヲ捕《トラ》フレバ畜《カ》フ。然《シカ》レドモ竊盗《セツタウ》ノ性《セイ》アリ。形《カタチ》虎《トラ》ニ似《ニ》テ二尺《ニシヤク》ニ足《タ》ラズ。(下略《げりやく》)」
 成程《なるほど》猫は膳《ぜん》の上の刺身《さしみ》を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盗《せつたう》ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫《けふはく》の性あり、蝶《てふ》は浮浪の性あり、鮫《さめ》は殺人の性ありと云つても差支《さしつか》へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者|大槻文彦《おほつきふみひこ》先生は少くとも鳥獣|魚貝《ぎよばい》に対する誹謗《ひばう》の性を具へた老学者である。

     二十五 版数

 日本の版数は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相当の出版業者などは内務省への献本二冊を一版に数へてゐるらしい。たとひそれは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》としても、今日《こんにち》のやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ広告を目安《めやす》に本を買つてゐる天下の読者は愚弄《ぐろう》されてゐるのも同じことである。
 尤《もつと》も仏蘭西《フランス》の版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部と定《さだ》めた上、版数も偽《いつは》らずに広告することは当然日本の出版業組合も※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行《れいかう》して然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。

     二十六 家

 早川孝太郎《はやかはかうたらう》氏は「三州横山話《さんしうよこやまばなし》」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。
 盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間《ま》に何ごとあらば起せ、桁梁《けたはり》」
 火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁《はり》に雪の桁《けた》、雨のたる木に露の葺《ふ》き草」
 いづれも「家《いへ》」に生命を感じた古《いにし》へびとの面目《めんもく》を見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後《のち》に生れるものは是等《これら》の歌を読んだにしろ、何《なん》の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家《しやくや》住まひをするやうになつても、是等の歌は幻《まぼろし》のやうに山かげに散在する茅葺《かやぶき》屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
 なほ次手《ついで》に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男《やなぎだくにを》氏の「遠野物語《とほのものがたり》」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区《こいしかはく》茗荷谷町《みやうがだにまち》五十二番地|郷土研究社《きやうどけんきうしや》、定価は僅かに七十銭である。但《ただ》し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訣《わけ》ではない。
 付記 なほ四五十年|前《ぜん》の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁《はり》も聴け、明けの六《む》つには起せ大《おほ》びき」

     二十七 続「とても」

 肯定《こうてい》
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