第3水準1−14−76]忙《そうばう》たる暮しを営んでゐる。勉強も中中思ふやうに出来ない。二三年|前《ぜん》に読みたいと思つた本も未だに読まずにゐる始末《しまつ》である。僕は又かう云ふ煩《わづら》ひは日本にばかりあることと思つてゐた。が、この頃ふとレミ・ド・グルモンのことを書いたものを読んだら、グルモンはその晩年にさへ、毎日ラ・フランスに論文を一篇、二週間目にメルキユウルに対話を一篇書いてゐたらしい。すると芸術を尊重する仏蘭西《フランス》に生れた文学者も甚だ清閑《せいかん》には乏しい訣《わけ》である。日本に生れた僕などの不平を云ふのは間違ひかも知れない。
二十 イバネス
イバネス氏も日本へ来たさうである。滞在日数も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評伝には Camille Pitollet の 〔V.Blasco−Iba'n~ez, Ses romans et le roman de sa vie〕 などと云ふ本も流行してゐる。と云つて読んでゐる次第ではない。唯二三年|前《ぜん》の横文字の雑誌に紹介してあるのを読んだだけである。
「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を監獄《かんごく》に暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは囚人《しうじん》だつたこともある。度たび野蛮《やばん》な決闘の為に重傷を蒙《かうむ》つたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉体的苦痛を嘗《な》めてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、一方《いつぱう》には代議士に選挙されたこともある。土耳古《トルコ》のサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと鉅万《きよまん》の金を扱ふ実業家にもなつてゐた。亜米利加《アメリカ》では村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に実現出来ることを示す為である。紙とインクとに書き上げるよりも更に数等巧妙に実現出来ることを示す為である。」
これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを読んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に実現してゐると云ふ気はしない。するのは唯小説の広告を実現してゐると云ふ気だけである。
二十一 船長
僕は上海《シヤンハイ》へ渡る途中、筑後丸《ちくごまる》の船長と話をした。政友会《せいいうくわい》の横暴とか、ロイド・ジヨオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。
「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御専門は政治経済ですか?」
僕は好《い》い加減に返事をした。
僕等は又|少時《しばらく》の後《のち》、ボルシエヴイズムか何かの話をし出した。僕は丁度《ちやうど》その月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、生憎《あいにく》船長は中央公論の読者ではなかつた。
「どうも中央公論も好《い》いですが、――」
船長は苦《にが》にがしさうに話しつづけた。
「小説を余り載せるものですから、つい買ひ渋《しぶ》つてしまふのです。あれだけはやめる訣《わけ》に行《い》かないものでせうか?」
僕は出来るだけ情けない顔をした。
「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」
爾来《じらい》僕は船長に格別の信用を博したやうである。
二十二 相撲
「負けまじき相撲《すまふ》を寝ものがたりかな」とは名高い蕪村《ぶそん》の相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひの外《ほか》異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば虚子《きよし》、碧梧桐《へきごどう》両氏、近頃は又|木村架空《きむらかくう》氏も「負けまじき」を未来の意味としてゐる。「明日《あす》の相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寝ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釈するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解釈してゐた。今もやはり過去の意味に解釈してゐる。「今日《けふ》は負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寝ものがたりにしてゐる。」――と云ふやうに解釈するものである。もし将来の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた上五《かみご》の下へ「寝ものがたりかな」と調子の延びた止《と》めを持つて来はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ芸術的|触角《しよくかく》の問題である。尤《もつと》も「蕪村句集講義」の中でも、子規居士《しきこじ》と内藤鳴雪《ないとうめいせつ》氏とはやはり過去の意味に解釈してゐる。
二十三
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング