の道を教へてゐる。
かう云ふ思想はいつの時代、どこの国にもあつたものと見える。どうやら人種の進歩などと云ふのは蛞蝓《なめくぢ》の歩みに似てゐるらしい。
十五 比喩
メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち辛《がら》い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは勿論《もちろん》、兎《と》に角《かく》意味を正確に伝へる文章を作る余裕《よゆう》さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩《ひゆ》の美しさを愛する心だけは残つてゐる。
「ツインガレラの顔は脂粉《しふん》に荒らされてゐる。しかしその皮膚《ひふ》の下には薄氷《うすらひ》の下の水のやうに何かがまだかすかに仄《ほの》めいてゐる。」
これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文は拙《つたな》いのに違ひない。けれどもむかし Guys の描《ゑが》いた、優しい売笑婦の面影《おもかげ》はありありと原文に見えるやうである。
十六 告白
「もつと己《おの》れの生活を書け、もつと大胆《だいたん》に告白しろ」とは屡《しばしば》諸君の勧《すす》める言葉である。僕も告白をせぬ訣《わけ》ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面《おくめん》もなしに書けと云ふのである。おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名《ほんめい》仮名《かめい》をずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免《ごめん》を蒙《かうむ》らざるを得ない。――
第一に僕はもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も一茶《いつさ》のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は皆面白がる。批評家は一転機を来したなどと褒《ほ》める。友だちは、愈《いよいよ》裸になつたなどと、――考へただけでも鳥肌《とりはだ》になる。
ストリンドベルクも金さへあれば、「痴人《ちじん》の告白《こくはく》」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自国語の本にする気はなかつたのである。僕も愈《いよいよ》食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりに兎《と》に角《かく》露命を繋《つな》いでゐる。且又体は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。
十七 チヤプリン
社会主義者と名のついたものはボルシエヴイツキたると然らざるとを問はず、悉く危険視されるやうである。殊にこの間の大《だい》地震の時にはいろいろその為に祟《たた》られたらしい。しかし社会主義者と云へば、あのチヤアリイ・チヤプリンもやはり社会主義者の一人《ひとり》である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チヤプリンも亦《また》迫害しなければなるまい。試みに某憲兵大尉の為にチヤプリンが殺されたことを想像して見給へ。家鴨《あひる》歩きをしてゐるうちに突き殺されたことを想像して見給へ。苟《いやし》くも一たびフイルムの上に彼の姿を眺めたものは義憤を発せずにはゐられないであらう。この義憤を現実に移しさへすれば、――兎《と》に角《かく》諸君もブラツク・リストの一人《ひとり》になることだけは確かである。
十八 あそび
これはサンデイ毎日所載、福田雅之助《ふくだまさのすけ》君の「最近の米国庭球界」の一節である。
「テイルデンは指を切つてから、却《かへ》つて素晴《すばら》らしい当りを見せる様になつた。なぜ指を切つてからの方が、以前よりうまくなつたかと云ふに、一つは彼の気が緊張してゐるからだ。彼は非常に芝居気があつて、勝てるマツチにもたやすく勝たうとはせず、或程度まで相手をあしらつて行《ゆ》くらしかつたが、今年度は「指」と云ふハンデイキヤツプの為に、ゲエムの始めから緊張してかかるから、尚更《なほさら》強いのである……」
ラケツトを握る指を切断した後《のち》、一層《いつそう》腕を上げたテイルデンはまことに偉大なる選手である。が、指の満足だつた彼も、――同時に又相手を翻弄《ほんろう》する「あそび」の精神に富んでゐた彼も必《かならず》しも偉大でないことはない。いや、僕はテイルデン自身も時時はちよつと心の底に、「あそび」の精神に富んでゐた昔をなつかしがつてゐはしないかと思つてゐる。
十九 塵労
僕も大抵《たいてい》の売文業者のやうに※[#「勹<夕」、
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング