また》斯《か》くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。
 芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸《あくび》の出易いものである。

     六 一切不捨

 何《なん》の某《なにがし》は帽子《ばうし》ばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければ好《よ》いのだが、――かう云ふ言葉を做《な》す人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分《すんぶん》も立派《りつぱ》になる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延《まんえん》するばかりである。
 何《なん》の某《なにがし》の小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫《くふう》をするより、上着もズボンも外套《ぐわいたう》も、上等ならしむる工夫《くふう》をせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活《い》かすべき工夫をせねばならぬ。
 これは独り芸術上の問題のみではない。人生に於《おい》ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主《ばうず》は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱《いだ》き得た坊主である。雲照《うんせう》さへ坊主の羅切《らせつ》を聞いては、「男根《だんこん》は須《すべから》く隆隆《りゆうりゆう》たるべし」と、弟子《でし》共に教へたと云ふではないか?
 我等の内にある一切《いつさい》のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一《ゆゐいち》の成仏《じやうぶつ》の道である。

     七 赤西蠣太

 或時|志賀直哉《しがなほや》氏の愛読者と、「赤西蠣太《あかにしかきた》の恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺《さざえ》とか鱒次郎《ますじらう》とか安甲《あんかふ》とか、大抵《たいてい》魚貝《ぎよばい》の名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程《なるほど》さうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太
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