古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、九霞山樵《きうかさんせう》の水墨山水――僕は時時退屈すると弥勒《みろく》の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ耽《ふけ》る事がある。

     二 にきび

 昔「羅生門《らしやうもん》」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人《げにん》の頬《ほほ》には、大きい面皰《にきび》のある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜《けんそん》すれば当推量《あてずゐりやう》に拠つたのであるが、その後《ご》左経記《さけいき》に二君[#「二君」に傍点]とあり、二君[#「二君」に傍点]又は二禁[#「二禁」に傍点]なるものは今日の面皰である事を知つた。二君[#「二君」に傍点]等は勿論当て字である。尤《もつと》もかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、傍人《ばうじん》には面白くも何《なん》ともあるまい。

     三 将軍

 官憲《くわんけん》は僕の「将軍《しやうぐん》」と云ふ小説に、何行《なんぎやう》も抹殺を施《ほどこ》した。処が今日《けふ》の新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏台《ふみだい》」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覚束《おぼつか》ないらしい。
 又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、虚偽《きよぎ》の上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ藩札《はんさつ》の類《たぐひ》である。官憲は虚偽を強《し》ひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。
 無邪気なるものは官憲である。

     四 毛生え薬

 文芸と階級問題との関係は、頭と毛生《けは》え薬《ぐすり》との関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、必《かならず》しも塗る事を必要としない。又もし禿《は》げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても利《き》かないであらう。

     五 芸術至上主義

 芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は万象《ばんしやう》の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、亦《
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