。好《い》いか? わかつたか? わかつたら、もうさつきのやうに見たいの何のと云ふんぢやあないぞ。」
 わたしは兄の声の中に何時にない情あひを感じました。が、兄の英吉位、妙な人間はございません。優しい声を出したかと思ふと、今度は又ふだんの通り、突然わたしを嚇《おどか》すやうにかう申すのでございます。
「そりやあ云ひたけりやあ云つても好《い》い。その代り痛い目に遇はされると思へ。」
 兄は憎体《にくてい》に云ひ放つたなり、徳蔵にも挨拶も何もせずに、さつさと何処かへ行つてしまひました。
 その晩のことでございます。わたしたち四人は土蔵の中に、夕飯の膳を囲みました。尤も母は枕の上に顔を挙げただけでございますから、囲んだものの数にははひりません。しかしその晩の夕飯は何時もより花やかな気がしました。それは申す迄もございません。あの薄暗い無尽燈の代りに、今夜は新しいランプの光が輝いてゐるからでございます。兄やわたしは食事のあひ間も、時々ランプを眺めました。石油を透《す》かした硝子の壺、動かない焔を守つた火屋《ほや》、――さう云ふものの美しさに満ちた珍しいランプを眺めました。
「明るいな。昼のやうだな。」
 父も母をかへり見ながら、満足さうに申しました。
「眩《まぶ》し過ぎる位ですね。」
 かう申した母の顔には、殆ど不安に近い色が浮んでゐたものでございます。
「そりやあ無尽燈に慣れてゐたから……だが一度ランプをつけちやあ、もう無尽燈はつけられない。」
「何でも始《はじめ》は眩し過ぎるんですよ。ランプでも、西洋の学問でも、……」
 兄は誰よりもはしやいで居りました。
「それでも慣れりやあ同じことですよ。今にきつとこのランプも暗いと云ふ時が来るんです。」
「大きにそんなものかも知れない。……お鶴。お前、お母さんのおも湯はどうしたんだ?」
「お母さんは今夜は沢山なんですつて。」
 わたしは母の云つた通り、何の気もなしに返事をしました。
「困つたな。ちつとも食気《しよくけ》がないのかい?」
 母は父に尋ねられると、仕方がなささうに溜息をしました。
「ええ、何だかこの石油の匂が、……旧弊人《きうへいじん》の証拠ですね。」
 それぎりわたしたちは言葉少なに、箸ばかり動かし続けました。しかし母は思ひ出したやうに、時々ランプの明るいことを褒めてゐたやうでございます。あの腫《は》れ上つた唇の上にも微笑らしいものさへ浮べながら。
 その晩も皆休んだのは十一時過ぎでございます。しかしわたしは眼をつぶつても、容易に寝つくことが出来ません。兄はわたしに雛のことは二度と云ふなと申しました。わたしも雛を出して見るのは出来ない相談とあきらめて居ります。が、出して見たいことはさつきと少しも変りません。雛は明日になつたが最後、遠いところへ行つてしまふ、――さう思へばつぶつた眼の中にも、自然と涙がたまつて来ます。一そみんなの寝てゐる中に、そつと一人出して見ようか?――さうもわたしは考へて見ました。それともあの中の一つだけ、何処か外へ隠して置かうか?――さうも亦わたしは考へて見ました。しかしどちらも見つかつたら、――と思ふとさすがにひるんでしまひます。わたしは正直にその晩位、いろいろ恐しいことばかり考へた覚えはございません。今夜もう一度火事があれば好《い》い。さうすれば人手に渡らぬ前に、すつかり雛も焼けてしまふ。さもなければ亜米利加人も頭の禿げた丸佐の主人もコレラになつてしまへば好い。さうすれば雛は何処へもやらずに、この儘《まま》大事にすることが出来る。――そんな空想も浮んで参ります。が、まだ何と申しても、其処は子供でございますから、一時間たつかたたない中に、何時かうとうと眠つてしまひました。
 それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈《あんどう》をともした土蔵に誰か人の起きてゐるらしい物音が聞えるのでございます。鼠かしら、泥坊かしら、又はもう夜明けになつたのかしら?――わたしはどちらかと迷ひながら、怯《お》づ怯づ細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐つてゐるのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわたしの雛が、――お節句以来見なかつた雛が並べ立ててあるのでございます。
 夢かと思ふと申すのはああ云ふ時でございませう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束《おぼつか》ない行燈の光の中に、象牙の笏《しやく》をかまへた男雛《をびな》を、冠の瓔珞《やうらく》を垂れた女雛《めびな》を、右近の橘《たちばな》を、左近の桜を、柄《え》の長い日傘を担《かつ》いだ仕丁《しちやう》を、眼八分に高坏《たかつき》を捧げた官女を、小さい蒔絵《まきゑ》の鏡台や箪笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞《ゑぼんぼり》を、色糸の手鞠《てまり》を、さうして又父の横顔を、……
 夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図《いちづ》に雛を見たがつた余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未《いまだ》にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでございます。
 しかしわたしはあの夜更けに、独り雛を眺めてゐる、年とつた父を見かけました。これだけは確かでございます。さうすればたとひ夢にしても、別段悔やしいとは思ひません。兎に角わたしは眼《ま》のあたりに、わたしと少しも変らない父を見たのでございますから、女々《めめ》しい、……その癖おごそかな父を見たのでございますから。

「雛」の話を書きかけたのは何年か前のことである。それを今書き上げたのは滝田氏の勧めによるのみではない。同時に又四五日前、横浜の或|英吉利《イギリス》人の客間に、古雛の首を玩具《おもちや》にしてゐる紅毛の童女に遇つたからである。今はこの話に出て来る雛も、鉛の兵隊やゴムの人形と一つ玩具箱《おもちやばこ》に投げこまれながら、同じ憂きめを見てゐるのかも知れない。
[#地から2字上げ](大正十二年二月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:福地博文
1998年11月7日公開
2004年3月16日修正
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