は駄々もこねましたが、お転婆だつたせゐでございませう。その割にはあまり悲しいとも思はなかつたものでございます。父は雛を売りさへすれば、紫繻子《むらさきじゆす》の帯を一本買つてやると申して居りましたから。……
その約束の出来た翌晩、丸佐は横浜へ行つた帰りに、わたしの家へ参りました。
わたしの家と申しましても、三度目の火事に遇つた後は普請《ふしん》もほんたうには参りません。焼け残つた土蔵を一家の住居《すまひ》に、それへさしかけて仮普請を見世《みせ》にしてゐたのでございます。尤《もつと》も当時は俄仕込《にはかじこ》みの薬屋をやつて居りましたから、正徳丸とか安経湯《あんけいたう》とか或は又胎毒散とか、――さう云ふ薬の金《きん》看板だけは薬箪笥《くすりだんす》の上に並んで居りました。其処に又|無尽燈《むじんとう》がともつてゐる、……と申したばかりでは多分おわかりになりますまい。無尽燈と申しますのは石油の代りに種油を使ふ旧式のランプでございます。可笑《をか》しい話でございますが、わたしは未《いまだ》に薬種の匂、陳皮《ちんぴ》や大黄《だいわう》の匂がすると、必《かならず》この無尽燈を思ひ出さずに
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