笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞《ゑぼんぼり》を、色糸の手鞠《てまり》を、さうして又父の横顔を、……
 夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図《いちづ》に雛を見たがつた余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未《いまだ》にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでございます。
 しかしわたしはあの夜更けに、独り雛を眺めてゐる、年とつた父を見かけました。これだけは確かでございます。さうすればたとひ夢にしても、別段悔やしいとは思ひません。兎に角わたしは眼《ま》のあたりに、わたしと少しも変らない父を見たのでございますから、女々《めめ》しい、……その癖おごそかな父を見たのでございますから。

「雛」の話を書きかけたのは何年か前のことである。それを今書き上げたのは滝田氏の勧めによるのみではない。同時に又四五日前、横浜の或|英吉利《イギリス》人の客間に、古雛の首を玩具《おもちや》にしてゐる紅毛の童女に遇つたからである。今はこの話に出て来る雛も、鉛の兵隊やゴム
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