当時の諸式にすると、ずゐぶん高価には違ひございません。
その内に雛を手放す日はだんだん近づいて参りました。わたしは前にも申しました通り、格別それを悲しいとは思はなかつたものでございます。ところが一日一日と約束の日が迫つて来ると、何時か雛と別れるのはつらいやうに思ひ出しました。しかし如何《いか》に子供とは申せ、一旦手放すときまつた雛を手放さずにすまうとは思ひません。唯人手に渡す前に、もう一度よく見て置きたい。内裏雛《だいりびな》、五人|囃《ばや》し、左近《さこん》の桜、右近《うこん》の橘《たちばな》、雪洞《ぼんぼり》、屏風《びやうぶ》、蒔絵《まきゑ》の道具、――もう一度この土蔵の中にさう云ふ物を飾つて見たい、――と申すのが心願でございました。が、性来一徹な父は何度わたしにせがまれても、これだけのことを許しません。「一度手附けをとつたとなりやあ、何処にあらうが人様のものだ。人様のものはいぢるもんぢやあない。」――かう申すのでございます。
するともう月末に近い、大風の吹いた日でございます。母は風邪に罹《かか》つたせゐか、それとも又|下唇《したくちびる》に出来た粟粒《あはつぶ》程の腫物《はれもの》のせゐか、気持が悪いと申したぎり、朝の御飯も頂きません。わたしと台所を片づけた後は片手に額を抑へながら、唯ぢつと長火鉢の前に俯向《うつむ》いてゐるのでございます。ところが彼是《かれこれ》お午《ひる》時分、ふと顔を擡《もた》げたのを見ると、腫物のあつた下唇だけ、丁度赤いお薩[#「お薩」に傍点]のやうに脹《は》れ上つてゐるではございませんか? しかも熱の高いことは妙に輝いた眼の色だけでも、直《すぐ》とわかるのでございます。これを見たわたしの驚きは申す迄もございません。わたしは殆ど無我夢中に、父のゐる見世へ飛んで行きました。
「お父さん! お父さん! お母さんが大変ですよ。」
父は、……それから其処にゐた兄も父と一しよに奥へ来ました。が、恐しい母の顔には呆気《あつけ》にとられたのでございませう。ふだんは物に騒がぬ父さへ、この時だけは茫然としたなり、口も少時《しばらく》は利かずに居りました。しかし母はさう云ふ中にも、一生懸命に微笑しながら、こんなことを申すのでございます。
「何、大したことはありますまい。唯ちよいとこのお出来に爪をかけただけなのですから、……今御飯の支度をします。」
「無理をしちやあいけない。御飯の支度なんぞはお鶴にも出来る。」
父は半ば叱るやうに、母の言葉を遮《さへぎ》りました。
「英吉! 本間さんを呼んで来い!」
兄はもうさう云はれた時には、一散に大風の見世の外へ飛び出して居つたのでございます。
本間さんと申す漢方医、――兄は始終藪医者などと莫迦《ばか》にした人でございますが、その医者も母を見た時には、当惑さうに、腕組みをしました。聞けば母の腫物は面疔《めんちやう》だと申すのでございますから。……もとより面疔も手術さへ出来れば、恐しい病気ではございますまい。が、当時の悲しさには手術どころの騒ぎではございません。唯|煎薬《せんやく》を飲ませたり、蛭《ひる》に血を吸はせたり、――そんなことをするだけでございます。父は毎日枕もとに、本間さんの薬を煎じました。兄も毎日十五銭づつ、蛭を買ひに出かけました。わたしも、……わたしは兄に知れないやうに、つい近所のお稲荷《いなり》様へお百度を踏みに通ひました。――さう云ふ始末でございますから、雛のことも申しては居られません。いえ、一時わたしを始め、誰もあの壁側《かべぎは》に積んだ三十ばかりの総桐の箱には眼もやらなかつたのでございます。
ところが十一月の二十九日、――愈《いよいよ》雛と別れると申す一日前のことでございます。わたしは雛と一しよにゐるのも、今日が最後だと考へると、殆ど矢も楯《たて》もたまらない位、もう一度箱が明けたくなりました。が、どんなにせがんだにしろ、父は不承知に違ひありません。すると母に話して貰ふ、――わたしは直《すぐ》にさう思ひましたが、何しろその後母の病気は前よりも一層|重《おも》つて居ります。食べ物もおも湯を啜《すす》る外は一切|喉《のど》を通りません。殊にこの頃は口中へも、絶えず血の色を交へた膿《うみ》がたまるやうになつたのでございます。かう云ふ母の姿を見ると、如何《いか》に十五の小娘にもせよ、わざわざ雛を飾りたいなぞとは口へ出す勇気も起りません。わたしは朝から枕もとに、母の機嫌を伺ひ伺ひ、とうとうお八つになる頃迄は何も云ひ出さずにしまひました。
しかしわたしの眼の前には金網を張つた窓の下に、例の総桐の雛の箱が積み上げてあるのでございます。さうしてその雛の箱は今夜一晩過ごしたが最後、遠い、横浜の異人屋敷へ、……ことによれば亜米利加《アメリカ》へも行つてしまふの
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