は居られません。現にその晩も無尽燈は薬種の匂の漂つた中に、薄暗い光を放つて居りました。
 頭の禿げた丸佐の主人はやつと散切《ざんぎ》りになつた父と、無尽燈を中に坐りました。
「では確かに半金だけ、……どうかちよいとお検《あらた》め下さい」
 時候の挨拶をすませて後、丸佐の主人がとり出したのは紙包みのお金でございます。その日に手つけを貰ふことも約束だつたのでございませう。父は火鉢へ手をやつたなり、何も云はずに時儀《じぎ》をしました。丁度この時でございます。わたしは母の云ひつけ通り、お茶のお給仕に参りました。ところがお茶を出さうとすると、丸佐の主人は大声で、「そりやあいけません。それだけはいけません。」と、突然かう申すではございませんか? わたしはお茶がいけないのかと、ちよいと呆気《あつけ》にもとられましたが、丸佐の主人の前を見ると、もう一つ紙に包んだお金がちやんと出てゐるのでございます。
「これやあほんの軽少だが、志はまあ志だから、……」
「いえ、もうお志は確かに頂きました。が、こりやあどうかお手もとへ、……」
「まあさ、……そんなに又恥をかかせるもんぢやあない。」
「冗談|仰有《おつしや》つちやあいけません。檀那《だんな》こそ恥をおかかせなさる。何も赤の他人ぢやあなし、大檀那以来お世話になつた丸佐のしたことぢやあごわせんか? まあ、そんな水つ臭いことを仰有らずに、これだけはそちらへおしまひなすつて下さい。……おや、お嬢さん。今晩は、おうおう、今日は蝶々髷《てふてふまげ》が大へん綺麗にお出来なすつた!」
 わたしは別段何の気なしに、かう云ふ押し問答を聞きながら、土蔵の中へ帰つて来ました。
 土蔵は十二畳も敷かりませうか? 可也《かなり》広うございましたが、箪笥もあれば長火鉢もある、長持もあれば置戸棚もある、――と云ふ体裁でございましたから、ずつと手狭な気がしました。さう云ふ家財道具の中にも、一番人目につき易いのは都合三十幾つかの総桐の箱でございます。もとより雛の箱と申すことは申し上げるまでもございますまい。これが何時《いつ》でも引き渡せるやうに、窓したの壁に積んでございました。かう云ふ土蔵のまん中に、無尽燈は見世へとられましたから、ぼんやり行燈《あんどう》がともつてゐる、――その昔じみた行燈の光に、母は振り出しの袋を縫ひ、兄は小さい古机に例の英語の読本か何か調べてゐるのでございます。それには変つたこともございません。が、ふと母の顔を見ると、母は針を動かしながら、伏し眼になつた睫毛《まつげ》の裏に涙を一ぱいためて居ります。
 お茶のお給仕をすませたわたしは母に褒めて貰ふことを楽しみに……と云ふのは大袈裟《おおげさ》にしろ、待ち設ける気もちはございました。其処《そこ》へこの涙でございませう? わたしは悲しいと思ふよりも、取りつき端《は》に困つてしまひましたから、出来るだけ母を見ないやうに、兄のゐる側へ坐りました。すると急に眼を挙げたのは兄の英吉でございます。兄はちよいとけげん[#「けげん」に傍点]さうに母とわたしとを見比べましたが、忽《たちま》ち妙な笑ひ方をすると、又横文字を読み始めました。わたしはまだこの時位、開化を鼻にかける兄を憎んだことはございません。お母さんを莫迦《ばか》にしてゐる、――一図《いちず》にさう思つたのでございます。わたしはいきなり力一ぱい、兄の背中をぶつてやりました。
「何をする?」
 兄はわたしを睨《にら》みつけました。
「ぶつてやる! ぶつてやる!」
 わたしは泣き声を出しながら、もう一度兄をぶたうとしました。その時はもう何時の間にか、兄の癇癖《かんぺき》の強いことも忘れてしまつたのでございます。が、まだ挙げた手を下さない中に、兄はわたしの横鬢《よこびん》へぴしやりと平手を飛ばせました。
「わからず屋!」
 わたしは勿論泣き出しました。と同時に兄の上にも物差しが降つたのでございませう。兄は直《すぐ》と威丈高《ゐたけだか》に母へ食つてかかりました。母もかうなれば承知しません。低い声を震《ふる》はせながら、さんざん兄と云ひ合ひました。
 さう云ふ口論の間中、わたしは唯|悔《く》やし泣きに泣き続けてゐたのでございます。丸佐の主人を送り出した父が無尽燈を持つた儘、見世からこちらへはひつて来る迄は。……いえ、わたしばかりではございません。兄も父の顔を見ると、急に黙つてしまひました。口数を利《き》かない父位、わたしはもとより当時の兄にも、恐しかつたものはございませんから。……
 その晩雛は今月の末、残りの半金を受け取ると同時に、あの横浜の亜米利加人へ渡してしまふことにきまりました。何、売り価《ね》でございますか? 今になつて考へますと、莫迦莫迦《ばかばか》しいやうでございますが、確か三十円とか申して居りました。それでも
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