でございます。そんなことを考へると、愈《いよいよ》我慢は出来ますまい。わたしは母の眠つたのを幸ひ、そつと見世へ出かけました。見世は日当りこそ悪いものの、土蔵の中に比べれば、往来の人通りが見えるだけでも、まだしも陽気でございます。其処に父は帳合ひを検《しら》べ、兄はせつせつと片隅の薬研《やげん》に甘草《かんざう》か何かを下《おろ》して居りました。
「ねえ、お父さん。後生《ごしやう》一生のお願ひだから、……」
わたしは父の顔を覗《のぞ》きこみながら、何時《いつ》もの頼みを持ちかけました。が、父は承知するどころか、相手になる景色《けしき》もございません。
「そんなことはこの間も云つたぢやあないか?……おい、英吉! お前は今日は明るい内に、ちよいと丸佐へ行つて来てくれ。」
「丸佐へ?……来てくれと云ふんですか?」
「何、ランプを一つ持つて来て貰ふんだが、……お前、帰りに貰つて来ても好《い》い。」
「だつて丸佐にランプはないでせう?」
父はわたしをそつちのけに、珍しい笑ひ顔を見せました。
「燭台か何かぢやああるまいし、……ランプは買つてくれつて頼んであるんだ。わたしが買ふよりやあ確だから。」
「ぢやあもう無尽燈はお廃止ですか?」
「あれももうお暇の出し時だらう。」
「古いものはどしどし止《や》めることです。第一お母さんもランプになりやあ、ちつとは気も晴れるでせうから。」
父はそれぎり元のやうに、又|算盤《そろばん》を弾《はじ》き出しました。が、わたしの念願は相手にされなければされないだけ、強くなるばかりでございます。わたしはもう一度後ろから父の肩を揺すぶりました。
「よう、お父さんつてば。よう。」
「うるさい!」
父は後ろを振り向きもせずに、いきなりわたしを叱りつけました。のみならず兄も意地悪さうに、わたしの顔を睨《にら》めて居ります。わたしはすつかり悄気返《しよげかへ》つた儘、そつと又奥へ帰つて来ました。すると母は何時《いつ》の間にか、熱のある眼を挙げながら、顔の上にかざした手の平を眺めてゐるのでございます。それがわたしの姿を見ると、思ひの外《ほか》はつきりかう申しました。
「お前、何をお父さんに叱られたのだえ?」
わたしは返事に困りましたから、枕もとの羽根楊枝《はねやうじ》をいぢつて居りました。
「又何か無理を云つたのだらう?……」
母はぢつとわたしを見たなり、今度は苦しさうに言葉を継ぎました。
「わたしはこの通りの体だしね、何も彼《か》もお父さんがなさるのだから、おとなしくしなけりやあいけませんよ。そりやあお隣の娘さんは芝居へも始終お出でなさるさ。……」
「芝居なんぞ見たくはないんだけれど……」
「いえ、芝居に限らずさ、簪《かんざし》だとか半襟《はんえり》だとか、お前にやあ欲しいものだらけでもね、……」
わたしはそれを聞いてゐる中に、悔やしいのだか悲しいのだか、とうとう涙をこぼしてしまひました。
「あのねえ、お母さん。……わたしはねえ、……何も欲しいものはないんだけれどねえ、唯あのお雛様を売る前にねえ、……」
「お雛様かえ? お雛様を売る前に?」
母は一層大きい眼にわたしの顔を見つめました。
「お雛様を売る前にねえ、……」
わたしはちよいと云ひ渋りました。その途端にふと気がついて見ると、何時の間にか後ろに立つてゐるのは兄の英吉でございます。兄はわたしを見下しながら、不相変《あひかはらず》慳貪《けんどん》にかう申しました。
「わからず屋! 又お雛様のことだらう? お父さんに叱られたのを忘れたのか?」
「まあ、好《い》いぢやあないか? そんなにがみがみ云はないでも。」
母はうるささうに眼を閉ぢました。が、兄はそれも聞えぬやうに叱り続けるのでございます。
「十五にもなつてゐる癖に、ちつとは理窟もわかりさうなもんだ? 高があんなお雛様位! 惜しがりなんぞするやつがあるもんか?」
「お世話焼きぢや! 兄さんのお雛様ぢやあないぢやあないか?」
わたしも負けずに云ひ返しました。その先は何時も同じでございます。二言三言云ひ合ふ中に、兄はわたしの襟上《えりがみ》を掴《つか》むと、いきなり其処へ引き倒しました。
「お転婆!」
兄は母さへ止めなければ、この時もきつと二つ三つは折檻《せつかん》して居つたでございませう。が、母は枕の上に半ば頭を擡《もた》げながら、喘《あへ》ぎ喘ぎ兄を叱りました。
「お鶴が何をしやあしまいし、そんな目に遇はせるにやあ当らないぢやあないか。」
「だつてこいつはいくら云つても、あんまり聞き分けがないんですもの。」
「いいえ、お鶴ばかり憎いのぢやあないだらう? お前は……お前は、……」
母は涙をためた儘、悔やしさうに何度も口ごもりました。
「お前はわたしが憎いのだらう? さもなけりやあわたしが病気だと云ふ
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