しやま》の桜も散り出したことなどを思い出していた。
二
広子《ひろこ》は東京へ帰った後《のち》、何かと用ばかり多かったために二三日の間は妹とも話をする機会を捉《とら》えなかった。それをやっと捉えたのは母かたの祖父の金婚式から帰って来た夜《よる》の十時ごろだった。妹の居間《いま》には例の通り壁と云う壁に油画《あぶらえ》がかかり、畳に据《す》えた円卓《えんたく》の上にも黄色い笠をかけた電燈が二年前の光りを放っていた。広子は寝間着《ねまき》に着換えた上へ、羽織だけ紋《もん》のあるのをひっかけたまま、円卓の前の安楽椅子《あんらくいす》へ坐った。
「ただ今お茶をさし上げます。」
辰子《たつこ》は姉の向うに坐ると、わざと真面目《まじめ》にこんなことを言った。
「いえ、もうどうぞ。――ほんとうにお茶なんぞ入《い》らないことよ。」
「じゃ紅茶でも入れましょうか?」
「紅茶も沢山。――それよりもあの話を聞かせて頂戴《ちょうだい》。」
広子は妹の顔を見ながら、出来るだけ気軽にこう言った。と言うのは彼女の感情を、――かなり複雑な陰影を帯びた好奇心だの非難だのあるいはまた同情だのを見透《みす》かされないためもあれば、被告じみた妹の心もちを楽《らく》にしてやりたいためもあったのだった。しかし辰子は思いのほか、困ったらしいけはいも見せなかった。いや、その時の彼女のそぶりに少しでも変化があったとすれば、それは浅黒い顔のどこかにほとんど目にも止らぬくらい、緊張《きんちょう》した色が動いただけだった。
「ええ、ぜひわたしも姉さんに聞いて頂きたいの。」
広子は内心プロロオグの簡単にすんだことに満足した。けれども辰子はそう言ったぎり、しばらく口を開《ひら》かなかった。広子は妹の沈黙を話し悪《にく》いためと解釈した。しかし妹を促《うなが》すことはちょっと残酷《ざんこく》な心もちがした。同時にまたそう云う妹の羞恥《しゅうち》を享楽したい心もちもした。かたがた広子は安楽椅子の背に西洋髪《せいようがみ》の頭を靠《もた》せたまま、全然当面の問題とは縁のない詠嘆の言葉を落した。
「何だか昔に返ったような気がするわね、この椅子にこうやって坐っていると。」
広子は彼女自身の言葉に少女じみた感動を催しながら、うっとり部屋の中を眺めまわした。なるほど椅子も、電燈も、円卓も、壁の油画も昔の記憶の
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