なかった。)芸術家肌の兄を好まなかった。たとい失明していたにしろ、按摩《あんま》にでも何《なん》にでもなれば好《い》いのに、妹の犠牲を受けているのは利己主義者であるとも極言した。辰子は姉とは反対に兄にも妹にも同情していた。姉の意見は厳粛《げんしゅく》な悲劇をわざと喜劇に翻訳する世間人の遊戯であるなどとも言った。こう言う言い合いのつのった末には二人ともきっと怒り出した。けれどもさきに怒り出すのはいつも辰子にきまっていた。広子はそこに彼女自身の優越《ゆうえつ》を感ぜずにはいられなかった。それは辰子よりも人間の心を看破《かんぱ》していると言う優越だった。あるいは辰子ほど空疎な理想に捉《とら》われていないと言う優越だった。
「姉さん。どうか今夜だけはほんとうの姉さんになって下さい。聡明《そうめい》ないつもの姉さんではなしに。」
三度目に広子の思い出したのは妹の手紙の一行《いちぎょう》だった。その手紙は不相変《あいかわらず》白い紙を細かいペンの字に埋《うず》めていた。しかし篤介との関係になると、ほとんど何ごとも書いてなかった。ただ念入りに繰り返してあるのは彼等は互に愛し合っていると云う、簡単な事実ばかりだった。広子は勿論|行《ぎょう》の間に彼等の関係を読もうとした。実際またそう思って読んで行けば、疑わしい個所もないではなかった。けれども再応《さいおう》考えて見ると、それも皆彼女の邪推《じゃすい》らしかった。広子は今もとりとめのない苛立《いらだ》たしさを感じながら、もう一度何か憂鬱《ゆううつ》な篤介の姿を思い浮べた。すると急に篤介の匂《におい》――篤介の体の発散する匂は干《ほ》し草《くさ》に似ているような気がし出した。彼女の経験に誤りがなければ、干し草の匂のする男性はたいてい浅ましい動物的の本能に富んでいるらしかった。広子はそう云う篤介と一しょに純粋な妹を考えるのは考えるのに堪えない心もちがした。
広子の聯想《れんそう》はそれからそれへと、とめどなしに流れつづけた。彼女は汽車の窓側《まどぎわ》にきちりと膝《ひざ》を重ねたまま、時どき窓の外へ目を移した。汽車は美濃《みの》の国境《くにざかい》に近い近江《おうみ》の山峡《やまかい》を走っていた。山峡には竹藪《たけやぶ》や杉林の間に白じろと桜の咲いているのも見えた。「この辺《へん》は余ほど寒いと見える。」――広子はいつか嵐山《あら
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