にも残酷《ざんこく》にその目の注《そそ》がれるのを感じた。しかし彼は目《ま》じろぎもせずに悠々とパンを食いつづけるのだった。……
「野蛮人《やばんじん》よ、あの人は。」
広子はこのことのあって後《のち》、こう辰子の罵《ののし》ったのをいまさらのように思い出した。なぜその篤介を愛するようになったか?――それは広子には不可解だった。けれども妹の気質《きしつ》を思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は物故《ぶっこ》した父のように、何ごとにも一図《いちず》になる気質だった。たとえば油画《あぶらえ》を始めた時にも、彼女の夢中になりさ加減は家族中の予想を超越《ちょうえつ》していた。彼女は華奢《きゃしゃ》な画の具箱を小脇《こわき》に、篤介と同じ研究所へ毎日せっせと通《かよ》い出した。同時にまた彼女の居間《いま》の壁には一週に必ず一枚ずつ新しい油画がかかり出した。油画は六号か八号のカンヴァスに人体ならば顔ばかりを、風景ならば西洋風の建物を描《えが》いたのが多いようだった。広子は結婚前の何箇月か、――殊に深い秋の夜《よ》などにはそう云う油画の並んだ部屋に何時間も妹と話しこんだ。辰子はいつも熱心にゴオグとかセザンヌとかの話をした。当時どこかに上演中だった武者小路《むしゃのこうじ》氏の戯曲の話もした。広子も美術だの文芸だのに全然興味のない訣《わけ》ではなかった。しかし彼女の空想は芸術とはほとんど縁のない未来の生活の上に休み勝ちだった。目はその間も額縁《がくぶち》に入れた机の上の玉葱《たまねぎ》だの、繃帯《ほうたい》をした少女の顔だの、芋畑《いもばたけ》の向うに連《つらな》った監獄《かんごく》の壁だのを眺めながら。……
「何《なん》と言うの、あなたの画《え》の流儀は?」
広子はそんなことを尋《たず》ねたために辰子を怒《おこ》らせたのを思い出した。もっとも妹に怒られることは必ずしも珍らしい出来事ではなかった。彼等は芸術の見かたは勿論、生活上の問題などにも意見の違うことはたびたびあった。現にある時は武者小路氏の戯曲さえ言い合いの種になった。その戯曲は失明した兄のために犠牲的《ぎせいてき》の結婚を敢《あえ》てする妹のことを書いたものだった。広子はこの上演を見物した時から、(彼女はよくよく退屈しない限り、小説や戯曲を読んだことは
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