きの底に多少の遊戯心《ゆうぎしん》を意識していた。数年前の彼女だったとすれば、それはあるいは後《うしろ》めたい意識だったかも知れなかった。が、今は後めたいよりもむしろ誇らしいくらいだった。彼女はいつか肥《ふと》り出した彼女の肉体を感じながら、明るい廊下の突き当りにある螺旋状《らせんじょう》の階段を登って行った。
 螺旋状の階段を登りつめた所は昼も薄暗い第一室だった。彼女はその薄暗い中に青貝《あおがい》を鏤《ちりば》めた古代の楽器《がっき》や古代の屏風《びょうぶ》を発見した。が、肝腎《かんじん》の篤介《あつすけ》の姿は生憎《あいにく》この部屋には見当らなかった。広子はちょっと陳列棚の硝子《ガラス》に彼女の髪形《かみかたち》を映して見た後《のち》、やはり格別急ぎもせずに隣《となり》の第二室へ足を向けた。
 第二室は天井《てんじょう》から明りを取った、横よりも竪《たて》の長い部屋だった。そのまた長い部屋の両側を硝子《ガラス》越しに埋《うず》めているのは藤原《ふじわら》とか鎌倉《かまくら》とか言うらしい、もの寂《さ》びた仏画ばかりだった。篤介は今日《きょう》も制服の上に狐色《きつねいろ》になったクレヴァア・ネットをひっかけ、この伽藍《がらん》に似た部屋の中をぶらぶら一人《ひとり》歩いていた。広子は彼の姿を見た時、咄嗟《とっさ》に敵意の起るのを感じた。しかしそれは掛け値なしにほんの咄嗟の出来事だった。彼はもうその時にはまともにこちらを眺めていた。広子は彼の顔や態度にたちまち昔の「猿」を感じた。同時にまた気安い軽蔑《けいべつ》を感じた。彼はこちらを眺めたなり、礼をしたものかしないものか判断に迷っているらしかった。その妙に落ち着かない容子《ようす》は確かに恋愛だのロマンスだのと縁の遠いものに違いなかった。広子は目だけ微笑しながら、こう言う妹の恋人の前へ心もち足早《あしばや》に歩いて行った。
「大村《おおむら》さんでいらっしゃいますわね? わたしは――御存知《ごぞんじ》でございましょう?」
 篤介はただ「ええ」と答えた。彼女はこの「ええ」の中にはっきり彼の狼狽《ろうばい》を感じた。のみならずこの一瞬間に彼の段鼻《だんばな》だの、金歯《きんば》だの、左の揉《も》み上《あ》げの剃刀傷《かみそりきず》だの、ズボンの膝《ひざ》のたるんでいることだの、――そのほか一々数えるにも足らぬ無数の事
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