て》表慶館《ひょうけいかん》へ画を見に行《ゆ》くことになっているの。その時刻に姉さんも表慶館へ行って大村に会っちゃ下さらない?」
「そうねえ、わたしも明後日ならば、ちょうどお墓参りをする次手《ついで》もあるし。……」
広子はうっかりこう言った後《のち》、たちまち軽率《けいそつ》を後悔した。けれども辰子はその時にはもう別人《べつじん》かと思うくらい、顔中に喜びを漲《みなぎ》らせていた。
「そうお? じゃそうして頂戴《ちょうだい》。大村へはわたしから電話をかけて置くわ。」
広子は妹の顔を見るなり、いつか完全に妹の意志の凱歌《がいか》を挙げていたことを発見した。この発見は彼女の義務心よりも彼女の自尊心にこたえるものだった。彼女は最後にもう一度妹の喜びに乗じながら、彼等の秘密へ切りこもうとした。が、辰子はその途端《とたん》に、――姉の唇《くちびる》の動こうとした途端に突然体を伸べるが早いか、白粉《おしろい》を刷《は》いた広子の頬《ほお》へ音の高いキスを贈った。広子は妹のキスを受けた記憶をほとんど持ち合せていなかった。もし一度でもあったとすれば、それはまだ辰子の幼稚園《ようちえん》へ通っていた時代のことだけだった。彼女はこう言う妹のキスに驚きよりもむしろ羞《はずか》しさを感じた。このショックは勿論|浪《なみ》のように彼女の落ち着きを打ち崩した。彼女は半《なか》ば微笑した目にわざと妹を睨《にら》めるほかはなかった。
「いやよ。何をするの?」
「だってほんとうに嬉しいんですもの。」
辰子は円卓《えんたく》の上へのり出したまま、黄色い電燈の笠越しに浅黒い顔を赫《かがや》かせていた。
「けれども始めからそう思っていたのよ。姉さんはきっとわたしたちのためには何《なん》でもして下さるのに違いないって。――実は昨日《きのう》も大村と一日《いちんち》姉さんの話をしたの。それでね、……」
「それで?」
辰子はちょっと目の中に悪戯《いたずら》っ児《こ》らしい閃《ひらめ》きを宿した。
「それでもうおしまいだわ。」
三
広子《ひろこ》は化粧道具や何かを入れた銀細具《ぎんざいく》のバッグを下げたまま、何年《なんねん》にもほとんど来たことのない表慶館《ひょうけいかん》の廊下《ろうか》を歩いて行った。彼女の心は彼女自身の予期していたよりも静かだった。のみならず彼女はその落ち着
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