の。――ああ、それから姉さんにわたしから手紙を上げたことね、あのことは大村にも話して置いたの。」
 広子は妹の話し終った時、勿論|歯痒《はがゆ》いもの足らなさを感じた。けれども一通《ひととお》り打ち明けられて見ると、これ以上第二の問題には深入り出来ないのに違いなかった。彼女はそのためにやむを得ず第一の問題に縋《すが》りついた。
「だってあなたはあの人は大嫌《だいきら》いだって言っていたじゃないの?」
 広子はいつか声の中にはいった挑戦《ちょうせん》の調子を意識していた。が、辰子はこの問にさえ笑顔《えがお》を見せたばかりだった。
「大村もわたしは大嫌いだったんですって。ジン・コクテルくらいは飲みそうな気がしたんですって。」
「そんなものを飲む人がいるの?」
「そりゃいるわ。男のように胡坐《あぐら》をかいて花を引く人もいるんですもの。」
「それがあなたがたの新時代?」
「かも知れないと思っているの。……」
 辰子は姉の予想したよりも遥《はる》かに真面目《まじめ》に返事をした。と思うとたちまち微笑《びしょう》と一しょにもう一度|話頭《わとう》を引き戻した。
「それよりもわたしの問題だわね、姉さんから話していただけない?」
「そりゃ話して上げないこともないわ。上げないこともないけれども、――」
 広子はあらゆる姉のように忠告の言葉を加えようとした。すると辰子はそれよりも先にこう話を截断《せつだん》した。
「とにかく大村を知らないじゃね。――じゃ姉さん、二三日|中《うち》に大村に会っちゃ下さらない? 大村も喜んでお目にかかると思うの。」
 広子はこの話頭の変化に思わず大村の油画を眺めた。藤の花は苔《こけ》ばんだ木々の間になぜか前よりもほのぼのとしていた。彼女は一瞬間心の中に昔の「猿《さる》」を髣髴《ほうふつ》しながら、曖昧《あいまい》に「そうねえ」を繰《く》り返した。が、辰子は「そうねえ」くらいに満足する気色《けしき》も見せなかった。
「じゃ会って下さるわね。大村の下宿へ行って下さる?」
「だって下宿へも行《い》かれないじゃないの?」
「じゃここへ来て貰《もら》いましょうか? それも何《なん》だか可笑《おか》しいわね。」
「あの人は前にも来たことはあるの?」
「いいえ、まだ一度もないの。それだから何だか可笑しいのよ。じゃあと、――じゃこうして下さらない? 大村は明後日《あさっ
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