こ」に傍点]をしました。」

     八

 或三月の夜《よ》、僕はペンを休めた時、ふとニツケルの懐中時計の進んでゐるのを発見した。隣室の掛け時計は十時を打つてゐる。が、懐中時計は十時半になつてゐる。僕は懐中時計を置き火燵《ごたつ》の上に置き、丁寧《ていねい》に針を十時へ戻した。それから又ペンを動かし出した。時間と云ふものはかう云ふ時ほど、存外《ぞんぐわい》急に過ぎることはない。掛け時計は今度は十一時を打つた。僕はペンを持つたまま、懐中時計へ目をやると、――今度は不思議にも十二時になつてゐた。懐中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?

     九

 誰か椅子の上に爪を磨いてゐる。誰か窓の前にレエスをかがつてゐる。誰かやけに花をむしつてゐる。誰かそつと鸚鵡《あうむ》を絞め殺してゐる。誰か小さいレストランの裏の煙突の下に眠つてゐる。誰か帆前船《ほまへせん》の帆をあげてゐる。誰か柔い白パンに木炭画の線を拭つてゐる。誰か瓦斯《ガス》の※[#「均−土へん」、第3水準1−14−75]《にほひ》の中にシヤベルの泥をすくひ上げてゐる。誰か、――ではない。まるまると肥つた紳士が一人《ひとり》、
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング