向菩提樹《ぼだいじゅにむかう》。』どうじゃ。『安庠漸々《あんじょうにぜんぜん》向菩提樹《ぼだいじゅにむかう》。』女人《にょにん》を見、乳糜に飽《あ》かれた、端厳微妙《たんごんみみょう》の世尊の御姿が、目《ま》のあたりに拝《おが》まれるようではないか?」
 俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい竹縁《ちくえん》の近くへ、円座《わろうだ》を御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、都《みやこ》の便りでも聞かせて貰おう。」とわたしの話を御促《おうなが》しになりました。
 わたしは思わず眼を伏せました。兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯《おく》れたのです。しかし御主人は無頓着に、芭蕉《ばしょう》の葉の扇《おうぎ》を御手にしたまま、もう一度|御催促《ごさいそく》なさいました。
「どうじゃ、女房は相不変《あいかわらず》小言《こごと》ばかり云っているか?」
 わたしはやむを得ず俯向《うつむ》いたなり、御留守《おるす》の間《あいだ》に出来《しゅったい》した、いろいろの大変を御話しました。御主人が御捕《おとら》われなすった後《のち》、御近
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