使を立てました。使は元宰先生の手札《しゅさつ》の外《ほか》にも、それらの名画を購《あがな》うべき※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]金《たくきん》を授けられていたのです。しかし張氏は前のとおり、どうしても黄一峯《こういっぽう》だけは、手離すことを肯《がえん》じません。翁はついに秋山図《しゅうざんず》には意を絶つより外《ほか》はなくなりました。

      *     *     *

 王石谷《おうせきこく》はちょいと口を噤《つぐ》んだ。
「これまでは私《わたし》が煙客先生《えんかくせんせい》から、聞かせられた話なのです」
「では煙客先生だけは、たしかに秋山図を見られたのですか?」
 ※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》は髯《ひげ》を撫《ぶ》しながら、念を押すように王石谷を見た。
「先生は見たと言われるのです。が、たしかに見られたのかどうか、それは誰にもわかりません」
「しかしお話の容子《ようす》では、――」
「まあ先をお聴《き》きください。しまいまでお聴きくだされば、また自《おのずか》ら私《わたし》とは違ったお考が出るかもしれません」
 王石谷は今度は茶も啜《すす》らずに、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》と話を続けだした。

      *     *     *

 煙客翁が私《わたし》にこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜《せいそう》を経過した後《のち》だったのです。その時は元宰《げんさい》先生も、とうに物故《ぶっこ》していましたし、張氏《ちょうし》の家でもいつの間《ま》にか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未《いまだ》に亀玉《きぎょく》の毀《やぶ》れもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
「あの黄一峯は公孫大嬢《こうそんたいじょう》の剣器《けんき》のようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神気《しんき》が、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍翔《りょうしょう》の看《かん》はあっても、人や剣《つるぎ》が我々に見えないのと同じことですよ」
 それから一月《ひとつき》ばかりの後《のち》、そろそろ春風《しゅんぷう》が動きだしたのを潮《しお》に、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁《おう》にその話をすると、
「ではちょうど好《い》い機会だから、秋山《しゅうざん》を尋ねてご覧《らん》なさい。あれがもう一度世に出れば、画苑《がえん》の慶事《けいじ》ですよ」と言うのです。
 私ももちろん望むところですから、早速翁を煩《わずら》わせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊歴《ゆうれき》の途《と》に上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤州《じゅんしゅう》の張氏の家を訪れる暇《ひま》がありません。私は翁の書を袖《そで》にしたなり、とうとう子規《ほととぎす》が啼《な》くようになるまで、秋山《しゅうざん》を尋ねずにしまいました。
 その内にふと耳にはいったのは、貴戚《きせき》の王氏《おうし》が秋山図を手に入れたという噂《うわさ》です。そういえば私《わたし》が遊歴中、煙客翁《えんかくおう》の書を見せた人には、王氏を知っているものも交《まじ》っていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張氏《ちょうし》の家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊間《ぼうかん》の説によれば、張氏の孫は王氏《おうし》の使を受けると、伝家の彝鼎《いてい》や法書とともに、すぐさま大癡《たいち》の秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家姫《かき》を出したり、音楽を奏したり、盛な饗宴《きょうえん》を催したあげく、千金を寿《じゅ》にしたとかいうことです。私はほとんど雀躍《じゃくやく》しました。滄桑五十載《そうそうごじっさい》を閲《けみ》した後《のち》でも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看《み》ることは、鬼神《きじん》が悪《にく》むのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦慮《しょうりょ》も待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃楼《しんろう》のように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外《ほか》はありません。私は取る物も取りあえず、金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしょう》にある王氏の第宅《ていたく》へ、秋山を見に出かけて行きました。
 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹《ぼたん》が、玉欄《ぎょくらん》の外《そと》に咲き誇った、風のない初夏の午過《ひるす》ぎです。私は王氏の顔を見ると、揖《ゆう》もすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です」
 王氏も得意満面でした。
「今日《きょう》は煙客先生や廉州《れんしゅう》先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう」
 王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸《か》けさせました。水に臨んだ紅葉《こうよう》の村、谷を埋《うず》めている白雲《はくうん》の群《むれ》、それから遠近《おちこち》に側立《そばだ》った、屏風《びょうぶ》のような数峯の青《せい》、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍《おど》らせながら、じっと壁上の画を眺めました。
 この雲煙邱壑《うんえんきゅうがく》は、紛《まぎ》れもない黄一峯《こういっぽう》です、癡翁《ちおう》を除いては何人《なんぴと》も、これほど皴点《しゅんてん》を加えながら、しかも墨を活《い》かすことは――これほど設色《せっしょく》を重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄一峯《こういっぽう》です。そうしてその秋山図《しゅうざんず》よりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
 私《わたし》の周囲には王氏を始め、座にい合せた食客《しょっかく》たちが、私の顔色《かおいろ》を窺《うかが》っていました。ですから私は失望の色が、寸分《すんぶん》も顔へ露《あら》われないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
「どうです?」
 私は言下《ごんか》に答えました。
「神品です。なるほどこれでは煙客《えんかく》先生が、驚倒《きょうとう》されたのも不思議はありません」
 王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉《まゆ》の間には、いくぶんか私の賞讃《しょうさん》に、不満らしい気色《けしき》が見えたものです。
 そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会釈《えしゃく》をする間《ま》も、嬉しそうな微笑を浮べていました。
「五十年|前《ぜん》に秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日《きょう》はまたこういう富貴《ふうき》のお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です」
 煙客翁はこう言いながら、壁上の大癡《たいち》を仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容子《ようす》に、注意深い眼を注いでいました。すると果然《かぜん》翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
 しばらく沈黙が続いた後《のち》、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
「どうです? 今も石谷《せきこく》先生は、たいそう褒《ほ》めてくれましたが、――」
 私は正直な煙客翁が、有体《ありてい》な返事をしはしないかと、内心|冷《ひ》や冷《ひ》やしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮嚀《ていねい》に王氏へ答えました。
「これがお手にはいったのは、あなたのご運が好《よ》いのです。ご家蔵《かぞう》の諸宝《しょほう》もこの後《のち》は、一段と光彩を添えることでしょう」
 しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂色《ゆうしょく》が、ますます深くなるばかりです。
 その時もし廉州《れんしゅう》先生が、遅《おく》れ馳《ば》せにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
「これがお話の秋山図ですか?」
 先生は無造作《むぞうさ》な挨拶《あいさつ》をしてから、黄一峯《こういっぽう》の画《え》に対しました。そうしてしばらくは黙然《もくねん》と、口髭《くちひげ》ばかり噛《か》んでいました。
「煙客先生《えんかくせんせい》は五十年|前《ぜん》にも、一度この図をご覧になったそうです」
 王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州《れんしゅう》先生はまだ翁から、一度も秋山《しゅうざん》の神逸《しんいつ》を聞かされたことがなかったのです。
「どうでしょう? あなたのご鑑裁《かんさい》は」
 先生は歎息《たんそく》を洩らしたぎり、不相変《あいかわらず》画を眺めていました。
「ご遠慮のないところを伺《うかが》いたいのですが、――」
 王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
 廉州先生はまた口を噤《つぐ》みました。
「これは?」
「これは癡翁《ちおう》第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気|淋漓《りんり》じゃありませんか。林木なぞの設色《せっしょく》も、まさに天造《てんぞう》とも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局《ふきょく》があのために、どのくらい活《い》きているかわかりません」
 今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧《かえり》みると、いちいち画の佳所《かしょ》を指さしながら、盛《さかん》に感歎の声を挙《あ》げ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
 私はその間《あいだ》に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
 私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬《まばた》きを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家《ちょうけ》の主人は、狐仙《こせん》か何かだったかもしれませんよ」

      *     *     *

「秋山図の話はこれだけです」
 王石谷《おうせきこく》は語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜《すす》った。
「なるほど、不思議な話です」
 ※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田《うんなんでん》は、さっきから銅檠《どうけい》の焔《ほのお》を眺めていた。
「その後《ご》王氏も熱心に、いろいろ尋《たず》ねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体|幻《まぼろし》でもありますまいし、――」
「しかし煙客先生《えんかくせんせい》の心の中《うち》には、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の
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