も判然しない。ただわずかに見分けられるのははかない石鹸玉《しゃぼんだま》に似た色彩である。いや、色彩の似たばかりではない。この白壁に映っているのはそれ自身大きい石鹸玉である。夢のようにどこからか漂《ただよ》って来た薄明りの中の石鹸玉である。
「あのぼんやりしているのはレンズのピントを合せさえすれば――この前にあるレンズですな。――直《すぐ》に御覧の通りはっきりなります。」
 主人はもう一度及び腰になった。と同時に石鹸玉は見る見る一枚の風景画に変った。もっとも日本の風景画ではない。水路の両側に家々の聳《そび》えたどこか西洋の風景画である。時刻はもう日の暮に近い頃であろう。三日月《みかづき》は右手の家々の空にかすかに光りを放っている。その三日月も、家々も、家々の窓の薔薇《ばら》の花も、ひっそりと湛《たた》えた水の上へ鮮《あざや》かに影を落している。人影は勿論、見渡したところ鴎《かもめ》一羽浮んでいない。水はただ突当《つきあた》りの橋の下へまっ直に一すじつづいている。
「イタリヤのベニスの風景でございます。」
 三十年後の保吉にヴェネチアの魅力を教えたのはダンヌンチオの小説である。けれども当
前へ 次へ
全38ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング