――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。
宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁《てつぶち》のパンス・ネエをかけた、鶏のように顔の赤い、短い頬鬚《ほおひげ》のある仏蘭西《フランス》人である。保吉は横目を使いながら、ちょっとその本を覗《のぞ》きこんだ、Essai sur les ……あとは何だか判然しない。しかし内容はともかくも、紙の黄ばんだ、活字の細《こま》かい、とうてい新聞を読むようには読めそうもない代物《しろもの》である。
保吉はこの宣教師に軽い敵意を感じたまま、ぼんやり空想に耽《ふけ》り出した。――大勢の小天使は宣教師のまわりに読書の平安を護《まも》っている。勿論《もちろん》異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔《つば》の広い帽子の上に、逆立《さかだ》ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白《めじろ》押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談《じょうだん》を云い合っている。おや、一人の小天使は耳
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