」である。保吉は食後の紅茶を前に、ぼんやり巻煙草《まきたばこ》をふかしながら、大川《おおかわ》の向うに人となった二十年|前《ぜん》の幸福を夢みつづけた。……
 この数篇の小品《しょうひん》は一本の巻煙草の煙となる間に、続々と保吉の心をかすめた追憶の二三を記したものである。

     二 道の上の秘密

 保吉《やすきち》の四歳《しさい》の時である。彼は鶴《つる》と云う女中と一しょに大溝の往来へ通りかかった。黒ぐろと湛《たた》えた大溝《おおどぶ》の向うは後《のち》に両国《りょうごく》の停車場《ていしゃば》になった、名高い御竹倉《おたけぐら》の竹藪《たけやぶ》である。本所七不思議《ほんじょななふしぎ》の一つに当る狸《たぬき》の莫迦囃子《ばかばやし》と云うものはこの藪の中から聞えるらしい。少くとも保吉は誰に聞いたのか、狸の莫迦囃子の聞えるのは勿論、おいてき堀や片葉《かたは》の葭《よし》も御竹倉にあるものと確信していた。が、今はこの気味の悪い藪も狸などはどこかへ逐《お》い払ったように、日の光の澄《す》んだ風の中に黄ばんだ竹の秀《ほ》をそよがせている。
「坊ちゃん、これを御存知ですか?」
 つうや[#「つうや」に傍点](保吉は彼女をこう呼んでいた)は彼を顧みながら、人通りの少い道の上を指《ゆびさ》した。土埃《つちほこり》の乾いた道の上にはかなり太い線が一すじ、薄うすと向うへ走っている。保吉は前にも道の上にこう云う線を見たような気がした。しかし今もその時のように何かと云うことはわからなかった。
「何でしょう? 坊ちゃん、考えて御覧なさい。」
 これはつうや[#「つうや」に傍点]の常套《じょうとう》手段である。彼女は何を尋ねても、素直《すなお》に教えたと云うことはない。必ず一度は厳格《げんかく》に「考えて御覧なさい」を繰り返すのである。厳格に――けれどもつうや[#「つうや」に傍点]は母のように年をとっていた訣《わけ》でもなんでもない。やっと十五か十六になった、小さい泣黒子《なきぼくろ》のある小娘《こむすめ》である。もとより彼女のこう云ったのは少しでも保吉の教育に力を添《そ》えたいと思ったのであろう。彼もつうや[#「つうや」に傍点]の親切には感謝したいと思っている。が、彼女もこの言葉の意味をもっとほんとうに知っていたとすれば、きっと昔ほど執拗《しつよう》に何にでも「考えて御覧なさい」を繰り返す愚《ぐ》だけは免《まぬか》れたであろう。保吉は爾来《じらい》三十年間、いろいろの問題を考えて見た。しかし何もわからないことはあの賢いつうや[#「つうや」に傍点]と一しょに大溝の往来を歩いた時と少しも変ってはいないのである。……
「ほら、こっちにももう一つあるでしょう? ねえ、坊ちゃん、考えて御覧なさい。このすじは一体何でしょう?」
 つうや[#「つうや」に傍点]は前のように道の上を指《ゆびさ》した。なるほど同じくらい太い線が三尺ばかりの距離を置いたまま、土埃《つちほこり》の道を走っている。保吉は厳粛に考えて見た後《のち》、とうとうその答を発明した。
「どこかの子がつけたんだろう、棒か何か持って来て?」
「それでも二本並んでいるでしょう?」
「だって二人《ふたり》でつけりゃ二本になるもの。」
 つうや[#「つうや」に傍点]はにやにや笑いながら、「いいえ」と云う代りに首を振った。保吉は勿論不平だった。しかし彼女は全知である。云わば Delphi の巫女《みこ》である。道の上の秘密《ひみつ》もとうの昔に看破《かんぱ》しているのに違いない。保吉はだんだん不平の代りにこの二《ふた》すじの線に対する驚異の情を感じ出した。
「じゃ何さ、このすじは?」
「何でしょう? ほら、ずっと向うまで同じように二すじ並んでいるでしょう?」
 実際つうや[#「つうや」に傍点]の云う通り、一すじの線のうねっている時には、向うに横たわったもう一すじの線もちゃんと同じようにうねっている。のみならずこの二すじの線は薄白い道のつづいた向うへ、永遠そのもののように通じている。これは一体何のために誰のつけた印《しるし》であろう? 保吉は幻燈《げんとう》の中に映《うつ》る蒙古《もうこ》の大沙漠《だいさばく》を思い出した。二すじの線はその大沙漠にもやはり細ぼそとつづいている。………
「よう、つうや[#「つうや」に傍点]、何だって云えば?」
「まあ、考えて御覧なさい。何か二つ揃《そろ》っているものですから。――何でしょう、二つ揃っているものは?」
 つうや[#「つうや」に傍点]もあらゆる巫女のように漠然と暗示を与えるだけである。保吉はいよいよ熱心に箸《はし》とか手袋とか太鼓《たいこ》の棒とか二つあるものを並べ出した。が、彼女はどの答にも容易に満足を表わさない。ただ妙に微笑したぎり、不相変《あいかわらず
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