あんき》などは上帝《じょうてい》の意志に任せてあるのか、やはり微笑を浮かべながら、少女との問答をつづけている。
「きょうは何日《なんにち》だか御存知ですか?」
「十二月二十五日でしょう。」
「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」
 保吉はもう一度顔をしかめた。宣教師は巧みにクリスト教の伝道へ移るのに違いない。コオランと共に剣を執《と》ったマホメット教の伝道はまだしも剣を執った所に人間同士の尊敬なり情熱なりを示している。が、クリスト教の伝道は全然相手を尊重しない。あたかも隣りに店を出した洋服屋の存在を教えるように慇懃《いんぎん》に神を教えるのである。あるいはそれでも知らぬ顔をすると、今度は外国語の授業料の代りに信仰を売ることを勧《すす》めるのである。殊に少年や少女などに画本《えほん》や玩具《がんぐ》を与える傍ら、ひそかに彼等の魂を天国へ誘拐しようとするのは当然犯罪と呼ばれなければならぬ。保吉の隣りにいる少女も、――しかし少女は不相変《あいかわらず》編みものの手を動かしながら、落ち着き払った返事をした。
「ええ、それは知っているわ。」
「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」
 少女はやっと宣教師の顔へみずみずしい黒眼勝《くろめが》ちの眼を注いだ。
「きょうはあたしのお誕生日《たんじょうび》。」
 保吉は思わず少女を見つめた。少女はもう大真面目《おおまじめ》に編み棒の先へ目をやっていた。しかしその顔はどう云うものか、前に思ったほど生意気ではない。いや、むしろ可愛い中にも智慧《ちえ》の光りの遍照《へんしょう》した、幼いマリアにも劣らぬ顔である。保吉はいつか彼自身の微笑しているのを発見した。
「きょうはあなたのお誕生日!」
 宣教師は突然笑い出した。この仏蘭西《フランス》人の笑う様子《ようす》はちょうど人の好《い》いお伽噺《とぎばなし》の中の大男か何かの笑うようである。少女は今度はけげんそうに宣教師の顔へ目を挙げた。これは少女ばかりではない。鼻の先にいる保吉を始め、両側の男女の乗客はたいてい宣教師へ目をあつめた。ただ彼等の目にあるものは疑惑でもなければ好奇心でもない。いずれも宣教師の哄笑《こうしょう》の意味をはっきり理解した頬笑《ほほえ》みである。
「お嬢さん。あなたは好《い》い日にお生まれなさいましたね。きょうはこの上もないお誕生日です。世界中のお祝いするお誕生日です。あなたは今に、――あなたの大人《おとな》になった時にはですね、あなたはきっと……」
 宣教師は言葉につかえたまま、自働車の中を見廻した。同時に保吉と眼を合わせた。宣教師の眼はパンス・ネエの奥に笑い涙をかがやかせている。保吉はその幸福に満ちた鼠色《ねずみいろ》の眼の中にあらゆるクリスマスの美しさを感じた。少女は――少女もやっと宣教師の笑い出した理由に気のついたのであろう、今は多少|拗《す》ねたようにわざと足などをぶらつかせている。
「あなたはきっと賢《かしこ》い奥さんに――優しいお母さんにおなりなさるでしょう。ではお嬢さん、さようなら。わたしの降りる所へ来ましたから。では――」
 宣教師はまた前のように一同の顔を見渡した。自働車はちょうど人通りの烈しい尾張町《おわりちょう》の辻に止まっている。
「では皆さん、さようなら。」
 数時間の後《のち》、保吉はやはり尾張町のあるバラックのカフェの隅にこの小事件を思い出した。あの肥《ふと》った宣教師はもう電燈もともり出した今頃、何をしていることであろう? クリストと誕生日を共にした少女は夕飯《ゆうはん》の膳《ぜん》についた父や母にけさの出来事を話しているかも知れない。保吉もまた二十年|前《ぜん》には娑婆苦《しゃばく》を知らぬ少女のように、あるいは罪のない問答の前に娑婆苦を忘却した宣教師のように小さい幸福を所有していた。大徳院《だいとくいん》の縁日《えんにち》に葡萄餅《ぶどうもち》を買ったのもその頃である。二州楼《にしゅうろう》の大広間に活動写真を見たのもその頃である。
「本所深川《ほんじょふかがわ》はまだ灰の山ですな。」
「へええ、そうですかねえ。時に吉原《よしわら》はどうしたんでしょう?」
「吉原はどうしましたか、――浅草《あさくさ》にはこの頃お姫様の婬売《いんばい》が出ると云うことですな。」
 隣りのテエブルには商人が二人、こう云う会話をつづけている。が、そんなことはどうでも好《い》い。カフェの中央のクリスマスの木は綿をかけた針葉《しんよう》の枝に玩具《おもちゃ》のサンタ・クロオスだの銀の星だのをぶら下げている。瓦斯煖炉《ガスだんろ》の炎《ほのお》も赤あかとその木の幹を照らしているらしい。きょうはお目出たいクリスマスである。「世界中のお祝するお誕生日
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