》「いいえ」を繰り返している。
「よう、教えておくれよう。ようってば。つうや[#「つうや」に傍点]。莫迦《ばか》つうや[#「つうや」に傍点]め!」
保吉はとうとう癇癪《かんしゃく》を起した。父さえ彼の癇癪には滅多《めった》に戦《たたかい》を挑《いど》んだことはない。それはずっと守《も》りをつづけたつうや[#「つうや」に傍点]もまた重々《じゅうじゅう》承知しているが、彼女はやっとおごそかに道の上の秘密を説明した。
「これは車の輪の跡《あと》です。」
これは車の輪の跡です! 保吉は呆気《あっけ》にとられたまま、土埃《つちほこり》の中に断続した二すじの線を見まもった。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼《しんきろう》のように消滅した。今はただ泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中《うち》におのずから車輪をまわしている。……
保吉は未《いま》だにこの時受けた、大きい教訓を服膺《ふくよう》している。三十年来考えて見ても、何《なに》一つ碌《ろく》にわからないのはむしろ一生の幸福かも知れない。
三 死
これもその頃の話である。晩酌《ばんしゃく》の膳《ぜん》に向った父は六兵衛《ろくべえ》の盞《さかずき》を手にしたまま、何かの拍子にこう云った。
「とうとうお目出度《めでたく》なったそうだな、ほら、あの槙町《まきちょう》の二弦琴《にげんきん》の師匠《ししょう》も。……」
ランプの光は鮮《あざや》かに黒塗りの膳《ぜん》の上を照らしている。こう云う時の膳の上ほど、美しい色彩に溢《あふ》れたものはない。保吉《やすきち》は未《いま》だに食物《しょくもつ》の色彩――※[#「魚+粫のつくり」、第3水準1−94−40]脯《からすみ》だの焼海苔《やきのり》だの酢蠣《すがき》だの辣薑《らっきょう》だのの色彩を愛している。もっとも当時愛したのはそれほど品《ひん》の好《い》い色彩ではない。むしろ悪《あく》どい刺戟《しげき》に富んだ、生《なま》なましい色彩ばかりである。彼はその晩も膳の前に、一掴《ひとつか》みの海髪《うご》を枕にしためじ[#「めじ」に傍点]の刺身《さしみ》を見守っていた。すると微醺《びくん》を帯びた父は彼の芸術的感興をも物質的欲望と解釈したのであろう。象牙《ぞうげ》の箸《はし》をとり上げたと思うと、わざと彼の鼻の上へ醤油の匂《におい》のする刺身《さしみ》を出した。彼は勿論一口に食った。それから感謝の意を表するため、こう父へ話しかけた。
「さっきはよそのお師匠さん、今度は僕がお目出度なった!」
父は勿論、母や伯母も一時にどっと笑い出した。が、必ずしもその笑いは機智《きち》に富んだ彼の答を了解したためばかりでもないようである。この疑問は彼の自尊心に多少の不快を感じさせた。けれども父を笑わせたのはとにかく大手柄《おおてがら》には違いない。かつまた家中《かちゅう》を陽気にしたのもそれ自身甚だ愉快である。保吉はたちまち父と一しょに出来るだけ大声に笑い出した。
すると笑い声の静まった後《のち》、父はまだ微笑を浮べたまま、大きい手に保吉の頸《くび》すじをたたいた。
「お目出度なると云うことはね、死んでしまうと云うことだよ。」
あらゆる答は鋤《すき》のように問の根を断《た》ってしまうものではない。むしろ古い問の代りに新らしい問を芽ぐませる木鋏《きばさみ》の役にしか立たぬものである。三十年|前《ぜん》の保吉も三十年|後《ご》の保吉のように、やっと答を得たと思うと、今度はそのまた答の中に新しい問を発見した。
「死んでしまうって、どうすること?」
「死んでしまうと云うことはね、ほら、お前は蟻《あり》を殺すだろう。……」
父は気の毒にも丹念《たんねん》に死と云うものを説明し出した。が、父の説明も少年の論理を固守《こしゅ》する彼には少しも満足を与えなかった。なるほど彼に殺された蟻の走らないことだけは確かである。けれどもあれは死んだのではない。ただ彼に殺されたのである。死んだ蟻と云う以上は格別彼に殺されずとも、じっと走らずにいる蟻でなければならぬ。そう云う蟻には石燈籠《いしどうろう》の下や冬青《もち》の木の根もとにも出合った覚えはない。しかし父はどう云う訣《わけ》か、全然この差別を無視している。……
「殺された蟻は死んでしまったのさ。」
「殺されたのは殺されただけじゃないの?」
「殺されたのも死んだのも同じことさ。」
「だって殺されたのは殺されたって云うもの。」
「云っても何でも同じことなんだよ。」
「違う。違う。殺されたのと死んだのとは同じじゃない。」
「莫迦《ばか》、何と云うわからないやつだ。」
父に叱《しか》られた保吉の泣き出してしまったのは勿論《もちろん》である。が、いかに叱られたにしろ、わからないことのわかる道理はない。彼はその後《ご》数箇月の
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