間、ちょうどひとかどの哲学者のように死と云う問題を考えつづけた。死は不可解そのものである。殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも関《かかわ》らず死んだ蟻である。このくらい秘密の魅力《みりょく》に富んだ、掴《つかま》え所のない問題はない。保吉は死を考える度に、ある日|回向院《えこういん》の境内《けいだい》に見かけた二匹の犬を思い出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔を向けたまま、一匹のようにじっとしていた。のみならず妙に厳粛《げんしゅく》だった。死と云うものもあの二匹の犬と何か似た所を持っているのかも知れない。……
するとある火ともし頃である。保吉は役所から帰った父と、薄暗い風呂《ふろ》にはいっていた。はいっていたとは云うものの、体などを洗っていたのではない。ただ胸ほどある据《す》え風呂の中に恐る恐る立ったなり、白い三角帆《さんかくほ》を張った帆前船《ほまえせん》の処女航海をさせていたのである。そこへ客か何か来たのであろう、鶴《つる》よりも年上の女中が一人、湯気《ゆげ》の立ちこめた硝子障子《ガラスしょうじ》をあけると、石鹸《せっけん》だらけになっていた父へ旦那様《だんなさま》何とかと声をかけた。父は海綿《かいめん》を使ったまま、「よし、今行く」と返事をした。それからまた保吉へ顔を見せながら、「お前はまだはいってお出《いで》。今お母さんがはいるから」と云った。勿論父のいないことは格別帆前船の処女航海に差支《さしつか》えを生ずる次第でもない。保吉はちょっと父を見たぎり、「うん」と素直《すなお》に返事をした。
父は体を拭いてしまうと、濡れ手拭を肩にかけながら、「どっこいしょ」と太い腰を起した。保吉はそれでも頓着せずに帆前船の三角帆を直していた。が、硝子《ガラス》障子のあいた音にもう一度ふと目を挙げると、父はちょうど湯気《ゆげ》の中に裸《はだか》の背中を見せたまま、風呂場の向うへ出る所だった。父の髪《かみ》はまだ白い訣《わけ》ではない。腰も若いもののようにまっ直《すぐ》である。しかしそう云う後ろ姿はなぜか四歳《しさい》の保吉の心にしみじみと寂しさを感じさせた。「お父さん」――一瞬間帆前船を忘れた彼は思わずそう呼びかけようとした。けれども二度目の硝子戸の音は静かに父の姿を隠してしまった。あとにはただ湯の匂《におい》に満ちた薄明《うすあか》りの広がっているばかりである。
保吉はひっそりした据え風呂の中に茫然と大きい目を開《ひら》いた。同時に従来不可解だった死と云うものを発見した。――死とはつまり父の姿の永久に消えてしまうことである!
四 海
保吉《やすきち》の海を知ったのは五歳か六歳の頃である。もっとも海とは云うものの、万里《ばんり》の大洋を知ったのではない。ただ大森《おおもり》の海岸に狭苦《せまくる》しい東京湾《とうきょうわん》を知ったのである。しかし狭苦しい東京湾も当時の保吉には驚異だった。奈良朝の歌人は海に寄せる恋を「大船《おおふね》の香取《かとり》の海に碇《いかり》おろしいかなる人かもの思わざらん」と歌った。保吉は勿論恋も知らず、万葉集の歌などと云うものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光りに煙《けむ》った海の何か妙にもの悲しい神秘を感じさせたのは事実である。彼は海へ張り出した葭簾張《よしずば》りの茶屋の手すりにいつまでも海を眺めつづけた。海は白じろと赫《かがや》いた帆かけ船を何艘《なんそう》も浮かべている。長い煙を空へ引いた二本マストの汽船も浮かべている。翼の長い一群《いちぐん》の鴎《かもめ》はちょうど猫のように啼きかわしながら、海面を斜めに飛んで行った。あの船や鴎はどこから来、どこへ行ってしまうのであろう? 海はただ幾重《いくえ》かの海苔粗朶《のりそだ》の向うに青あおと煙っているばかりである。……
けれども海の不可思議を一層|鮮《あざや》かに感じたのは裸《はだか》になった父や叔父《おじ》と遠浅《とおあさ》の渚《なぎさ》へ下りた時である。保吉は初め砂の上へ静かに寄せて来るさざ波を怖れた。が、それは父や叔父と海の中へはいりかけたほんの二三分の感情だった。その後《ご》の彼はさざ波は勿論、あらゆる海の幸《さち》を享楽した。茶屋の手すりに眺めていた海はどこか見知らぬ顔のように、珍らしいと同時に無気味《ぶきみ》だった。――しかし干潟《ひがた》に立って見る海は大きい玩具箱《おもちゃばこ》と同じことである。玩具箱! 彼は実際神のように海と云う世界を玩具にした。蟹《かに》や寄生貝《やどかり》は眩《まば》ゆい干潟《ひがた》を右往左往《うおうざおう》に歩いている。浪は今彼の前へ一ふさの海草を運んで来た。あの喇叭《らっぱ》に似ているのもやはり法螺貝《ほらがい》と云うのであろうか? この砂の中に隠れているのは浅蜊《あさ
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