り》と云う貝に違いない。……
 保吉の享楽は壮大だった。けれどもこう云う享楽の中にも多少の寂しさのなかった訣《わけ》ではない。彼は従来海の色を青いものと信じていた。両国の「大平《だいへい》」に売っている月耕《げっこう》や年方《としかた》の錦絵《にしきえ》をはじめ、当時流行の石版画《せきばんえ》の海はいずれも同じようにまっ青《さお》だった。殊に縁日《えんにち》の「からくり」の見せる黄海《こうかい》の海戦の光景などは黄海と云うのにも関《かかわ》らず、毒々しいほど青い浪《なみ》に白い浪がしらを躍らせていた。しかし目前の海の色は――なるほど目前の海の色も沖だけは青あおと煙《けむ》っている。が、渚《なぎさ》に近い海は少しも青い色を帯びていない。正にぬかるみのたまり水と選ぶ所のない泥色《どろいろ》をしている。いや、ぬかるみのたまり水よりも一層|鮮《あざや》かな代赭色《たいしゃいろ》をしている。彼はこの代赭色の海に予期を裏切られた寂しさを感じた。しかしまた同時に勇敢にも残酷《ざんこく》な現実を承認した。海を青いと考えるのは沖だけ見た大人《おとな》の誤りである。これは誰でも彼のように海水浴をしさえすれば、異存のない真理に違いない。海は実は代赭色をしている。バケツの錆《さび》に似た代赭色をしている。
 三十年前の保吉の態度は三十年後の保吉にもそのまま当嵌《あてはま》る態度である。代赭色の海を承認するのは一刻も早いのに越したことはない。かつまたこの代赭色の海を青い海に変えようとするのは所詮《しょせん》徒労《とろう》に畢《おわ》るだけである。それよりも代赭色の海の渚《なぎさ》に美しい貝を発見しよう。海もそのうちには沖のように一面に青あおとなるかも知れない。が、将来に※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]《あこが》れるよりもむしろ現在に安住しよう。――保吉は予言者的精神に富んだ二三の友人を尊敬しながら、しかもなお心の一番底には不相変《あいかわらず》ひとりこう思っている。
 大森の海から帰った後、母はどこかへ行った帰りに「日本昔噺《にほんむかしばなし》」の中にある「浦島太郎《うらしまたろう》」を買って来てくれた。こう云うお伽噺《とぎばなし》を読んで貰《もら》うことの楽しみだったのは勿論である。が、彼はそのほかにももう一つ楽しみを持ち合せていた。それはあり合せの水絵具に一々|挿絵《さしえ》を彩《いろど》ることだった。彼はこの「浦島太郎」にも早速彩色を加えることにした。「浦島太郎」は一冊の中《うち》に十《とお》ばかりの挿絵を含んでいる。彼はまず浦島太郎の竜宮《りゅうぐう》を去るの図を彩《いろど》りはじめた。竜宮は緑の屋根瓦に赤い柱のある宮殿である。乙姫《おとひめ》は――彼はちょっと考えた後《のち》、乙姫もやはり衣裳だけは一面に赤い色を塗ることにした。浦島太郎は考えずとも好《い》い、漁夫の着物は濃い藍色《あいいろ》、腰蓑《こしみの》は薄い黄色《きいろ》である。ただ細い釣竿《つりざお》にずっと黄色をなするのは存外《ぞんがい》彼にはむずかしかった。蓑亀《みのがめ》も毛だけを緑に塗るのは中々《なかなか》なまやさしい仕事ではない。最後に海は代赭色である。バケツの錆《さび》に似た代赭色である。――保吉はこう云う色彩の調和に芸術家らしい満足を感じた。殊に乙姫《おとひめ》や浦島太郎《うらしまたろう》の顔へ薄赤い色を加えたのは頗《すこぶ》る生動《せいどう》の趣《おもむき》でも伝えたもののように信じていた。
 保吉は※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》母のところへ彼の作品を見せに行った。何か縫《ぬい》ものをしていた母は老眼鏡の額越《ひたいご》しに挿絵の彩色へ目を移した。彼は当然母の口から褒《ほ》め言葉の出るのを予期していた。しかし母はこの彩色にも彼ほど感心しないらしかった。
「海の色は可笑《おか》しいねえ。なぜ青い色に塗らなかったの?」
「だって海はこう云う色なんだもの。」
「代赭色《たいしゃいろ》の海なんぞあるものかね。」
「大森の海は代赭色じゃないの?」
「大森の海だってまっ青《さお》だあね。」
「ううん、ちょうどこんな色をしていた。」
 母は彼の強情《ごうじょう》さ加減に驚嘆を交《まじ》えた微笑《びしょう》を洩《も》らした。が、どんなに説明しても、――いや、癇癪《かんしゃく》を起して彼の「浦島太郎」を引き裂《さ》いた後《あと》さえ、この疑う余地のない代赭色の海だけは信じなかった。……「海」の話はこれだけである。もっとも今日《こんにち》の保吉は話の体裁《ていさい》を整えるために、もっと小説の結末らしい結末をつけることも困難ではない。たとえば話を終る前に、こう云う数行《すうぎょう》をつけ加えるのである。――「保吉は母との問答の中にも
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