う一つ重大な発見をした。それは誰も代赭色の海には、――人生に横わる代赭色の海にも目をつぶり易いと云うことである。」
 けれどもこれは事実ではない。のみならず満潮は大森の海にも青い色の浪《なみ》を立たせている。すると現実とは代赭色の海か、それともまた青い色の海か? 所詮《しょせん》は我々のリアリズムも甚だ当《あて》にならぬと云うほかはない。かたがた保吉は前のような無技巧に話を終ることにした。が、話の体裁《ていさい》は?――芸術は諸君の云うように何よりもまず内容である。形容などはどうでも差支えない。

     五 幻燈

「このランプへこう火をつけて頂きます。」
 玩具屋《おもちゃや》の主人は金属製のランプへ黄色いマッチの火をともした。それから幻燈《げんとう》の後《うし》ろの戸をあけ、そっとそのランプを器械の中へ移した。七歳《しちさい》の保吉《やすきち》は息もつかずに、テエブルの前へ及び腰になった主人の手もとを眺めている。綺麗《きれい》に髪を左から分けた、妙に色の蒼白い主人の手もとを眺めている。時間はやっと三時頃であろう。玩具屋の外の硝子《ガラス》戸は一ぱいに当った日の光りの中に絶え間のない人通りを映《うつ》している。が、玩具屋の店の中は――殊にこの玩具の空箱《あきばこ》などを無造作《むぞうさ》に積み上げた店の隅は日の暮の薄暗さと変りはない。保吉はここへ来た時に何か気味悪さに近いものを感じた。しかし今は幻燈に――幻燈を映して見せる主人にあらゆる感情を忘れている。いや、彼の後ろに立った父の存在さえ忘れている。
「ランプを入れて頂きますと、あちらへああ月が出ますから[#「月が出ますから」に傍点]、――」
 やっと腰を起した主人は保吉と云うよりもむしろ父へ向うの白壁《しらかべ》を指し示した。幻燈はその白壁の上へちょうど差渡《さしわた》し三尺ばかりの光りの円を描《えが》いている。柔かに黄ばんだ光りの円はなるほど月に似ているかも知れない。が、白壁の蜘蛛《くも》の巣や埃《ほこり》もそこだけはありありと目に見えている。
「こちらへこう画《え》をさすのですな。」
 かたりと云う音の聞えたと思うと、光りの円はいつのまにかぼんやりと何か映している。保吉は金属の熱する匂《におい》に一層好奇心を刺戟《しげき》されながら、じっとその何かへ目を注いだ。何か、――まだそこに映ったものは風景か人物かも判然しない。ただわずかに見分けられるのははかない石鹸玉《しゃぼんだま》に似た色彩である。いや、色彩の似たばかりではない。この白壁に映っているのはそれ自身大きい石鹸玉である。夢のようにどこからか漂《ただよ》って来た薄明りの中の石鹸玉である。
「あのぼんやりしているのはレンズのピントを合せさえすれば――この前にあるレンズですな。――直《すぐ》に御覧の通りはっきりなります。」
 主人はもう一度及び腰になった。と同時に石鹸玉は見る見る一枚の風景画に変った。もっとも日本の風景画ではない。水路の両側に家々の聳《そび》えたどこか西洋の風景画である。時刻はもう日の暮に近い頃であろう。三日月《みかづき》は右手の家々の空にかすかに光りを放っている。その三日月も、家々も、家々の窓の薔薇《ばら》の花も、ひっそりと湛《たた》えた水の上へ鮮《あざや》かに影を落している。人影は勿論、見渡したところ鴎《かもめ》一羽浮んでいない。水はただ突当《つきあた》りの橋の下へまっ直に一すじつづいている。
「イタリヤのベニスの風景でございます。」
 三十年後の保吉にヴェネチアの魅力を教えたのはダンヌンチオの小説である。けれども当時の保吉はこの家々だの水路だのにただたよりのない寂しさを感じた。彼の愛する風景は大きい丹塗《にぬ》りの観音堂《かんのんどう》の前に無数の鳩《はと》の飛ぶ浅草《あさくさ》である。あるいはまた高い時計台の下に鉄道馬車の通る銀座である。それらの風景に比べると、この家々だの水路だのは何と云う寂しさに満ちているのであろう。鉄道馬車や鳩は見えずとも好《い》い。せめては向うの橋の上に一列の汽車でも通《とお》っていたら、――ちょうどこう思った途端《とたん》である。大きいリボンをした少女が一人、右手に並んだ窓の一つから突然小さい顔を出した。どの窓かははっきり覚えていない。しかし大体三日月の下の窓だったことだけは確かである。少女は顔を出したと思うと、さらにその顔をこちらへ向けた。それから――遠目《とおめ》にも愛くるしい顔に疑う余地のない頬笑《ほほえ》みを浮かべた? が、それは掛《か》け価《ね》のない一二秒の間の出来ごとである。思わず「おや」と目を見はった時には、少女はもういつのまにか窓の中へ姿を隠したのであろう。窓はどの窓も同じように人気《ひとけ》のない窓かけを垂《た》らしている。……
「さあ、もう映《う
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング