つ》しかたはわかったろう?」
父の言葉は茫然とした彼を現実の世界へ呼び戻した。父は葉巻を啣《くわ》えたまま、退屈《たいくつ》そうに後ろに佇《たたず》んでいる。玩具屋《おもちゃや》の外の往来も不相変《あいかわらず》人通りを絶たないらしい。主人も――綺麗に髪を分けた主人は小手調《こてしら》べをすませた手品師《てじなし》のように、妙な蒼白い頬《ほお》のあたりへ満足の微笑を漂わせている。保吉は急にこの幻燈を一刻も早く彼の部屋へ持って帰りたいと思い出した。……
保吉はその晩父と一しょに蝋《ろう》を引いた布の上へ、もう一度ヴェネチアの風景を映した。中空《ちゅうくう》の三日月、両側の家々、家々の窓の薔薇《ばら》の花を映した一すじの水路の水の光り、――それは皆前に見た通りである。が、あの愛くるしい少女だけはどうしたのか今度は顔を出さない。窓と云う窓はいつまで待っても、だらりと下った窓かけの後《うしろ》に家々の秘密を封じている。保吉はとうとう待ち遠しさに堪えかね、ランプの具合などを気にしていた父へ歎願《たんがん》するように話しかけた。
「あの女の子はどうして出ないの?」
「女の子? どこかに女の子がいるのかい?」
父は保吉の問の意味さえ、はっきりわからない様子である。
「ううん、いはしないけれども、顔だけ窓から出したじゃないの?」
「いつさ?」
「玩具屋の壁へ映した時に。」
「あの時も女の子なんぞは出やしないさ。」
「だって顔を出したのが見えたんだもの。」
「何を云っている?」
父は何と思ったか保吉の額へ手のひらをやった。それから急に保吉にもつけ景気とわかる大声を出した。
「さあ、今度は何を映そう?」
けれども保吉は耳にもかけず、ヴェネチアの風景を眺めつづけた。窓は薄明るい水路の水に静かな窓かけを映している。しかしいつかはどこかの窓から、大きいリボンをした少女が一人、突然顔を出さぬものでもない。――彼はこう考えると、名状の出来ぬ懐《なつか》しさを感じた。同時に従来知らなかったある嬉しい悲しさをも感じた。あの画《え》の幻燈の中にちらりと顔を出した少女は実際何か超自然《ちょうしぜん》の霊が彼の目に姿を現わしたのであろうか? あるいはまた少年に起り易い幻覚《げんかく》の一種に過ぎなかったのであろうか? それは勿論彼自身にも解決出来ないのに違いない。が、とにかく保吉は三十年後の今日《こんにち》さえ、しみじみ塵労《じんろう》に疲れた時にはこの永久に帰って来ないヴェネチアの少女を思い出している、ちょうど何年も顔をみない初恋の女人《にょにん》でも思い出すように。
六 お母さん
八歳か九歳《くさい》の時か、とにかくどちらかの秋である。陸軍大将の川島《かわしま》は回向院《えこういん》の濡《ぬ》れ仏《ぼとけ》の石壇《いしだん》の前に佇《たたず》みながら、味《み》かたの軍隊を検閲《けんえつ》した。もっとも軍隊とは云うものの、味かたは保吉《やすきち》とも四人しかいない。それも金釦《きんボタン》の制服を着た保吉一人を例外に、あとはことごとく紺飛白《こんがすり》や目《め》くら縞《じま》の筒袖《つつそで》を着ているのである。
これは勿論国技館の影の境内《けいだい》に落ちる回向院ではない。まだ野分《のわき》の朝などには鼠小僧《ねずみこぞう》の墓のあたりにも銀杏落葉《いちょうおちば》の山の出来る二昔前《ふたむかしまえ》の回向院である。妙に鄙《ひな》びた当時の景色――江戸と云うよりも江戸のはずれの本所《ほんじょ》と云う当時の景色はとうの昔に消え去ってしまった。しかしただ鳩《はと》だけは同じことである。いや、鳩も違っているかも知れない。その日も濡れ仏の石壇のまわりはほとんど鳩で一ぱいだった。が、どの鳩も今日《こんにち》のように小綺麗《こぎれい》に見えはしなかったらしい。「門前の土鳩《どばと》を友や樒売《しきみう》り」――こう云う天保《てんぽう》の俳人の作は必ずしも回向院の樒売《しきみう》りをうたったものとは限らないであろう。それとも保吉はこの句さえ見れば、いつも濡れ仏の石壇のまわりにごみごみ群がっていた鳩を、――喉《のど》の奥にこもる声に薄日の光りを震《ふる》わせていた鳩を思い出さずにはいられないのである。
鑢屋《やすりや》の子の川島は悠々と検閲を終った後《のち》、目くら縞の懐ろからナイフだのパチンコだのゴム鞠《まり》だのと一しょに一束《ひとたば》の画札《えふだ》を取り出した。これは駄菓子屋《だがしや》に売っている行軍将棋《こうぐんしょうぎ》の画札である。川島は彼等に一枚ずつその画札を渡しながら、四人の部下を任命(?)した。ここにその任命を公表すれば、桶屋《おけや》の子の平松《ひらまつ》は陸軍少将、巡査の子の田宮《たみや》は陸軍大尉、小間物《こまもの》
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